今日は「弘安の役」が起こった日

弘安の役 障子窓

 
弘安の役
 
すみません この「弘安の役」ですが
1281年の 6月 6日に

博多湾の志賀島に蒙古軍が上
陸したことに由来しました。

日付としては昨日のことなのです、
一日遅れてしまいました。

実際にはここへ来る前に 
海上の道筋にあたる対馬、壱岐などへ
攻めかかったのですが 

何といっても二度目でしたし 
日本側の激しい抵抗に
あうなどして一旦離れています。

で、そのあと 真っ直ぐ博多湾の方を
目指して出直してきたようです。

これ以前の最初の元寇 「文永の役」
(1274年)で 外国の軍隊と
戦うのに日本式の礼儀など
必要ないことを学習しました。
 

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犠牲は忘れない!外国との対戦

 
その時に散らされたり 
連れ去られた命の分まで 

憎しみを力に変えての
「弔い合戦」ですから 

日本側はたぶん本気モードで
戦ったのだと思います。

たくさんの犠牲の上に得た貴重な
「対外国の本当の戦争」の体験は 

当時の日本にとって衝撃的な
できごとだったでしょうね。

本当にしつこいったらありゃしない 
勝手に引き上げちゃったくせに

また攻めて来るなんて 
まったく懲りない連中です。

鎌倉幕府はフビライからの国書を
何度も無視するなどしたけど

それって九州からは遠く離れているし 
ここは大丈夫とか思ってたのかな。

文書で脅してきていたから 
一応警戒はしていたみたいだけど。

「文永の役」の時 蒙古軍はどういうわけか
突然引き揚げちゃってるけど
あれはどうしてだったんだろうって 
ずっと不思議なんです。

いろいろ都合もあったかもしれないし 
見渡す限りの広大な大地が
恋しくなったのかもしれないですね。 

毎日寝ても覚めても揺られてて
気持ち悪いし 見えるのは水平線ばかり。

大陸の人たちは地平線しか
見たことがなかっただろうから。

まあフビライの方は 
大激怒~!だったんでしょうねえ。 

地図で見ると対馬海峡はとても
狭く見えますが 海の難所なんですね。

そもそもモンゴル兵は騎馬民族ですから 
長い航海は片道だけでも
かなり難儀だったのではないでしょうかね。

もっとも2度の元寇どちらも主な戦力は
南宋人と朝鮮半島の人たち
だったみたいですけれど。

征服した人たちを先兵として送り込むのは 
支配者としては当然のことです。

後ろから槍や弓で さっさと進まんかいと
つんつんとつつかれながらの進軍なんて 
南宋人も朝鮮人もいやだったでしょうね。

二度目になった「弘安の役」は 
蒙古軍も二手に分かれて
日本を目指したらしく

 6月 6日に志賀島にやってきたのは 
東路軍という方でした。

日にちを合わせ合流して 日本に
攻め込むつもりだったようですが

後発の江南軍がなかなか到着しない間に 
東路軍がかなりの痛手をこうむった上
ついに真打登場! あ・の、台風ですよ。

台風に襲われて壊滅・退散したのは 
二度目の弘安の役の方だったのです。

どうやら江南軍の船よりも 
東路軍の船の方が丈夫だったようですが

それでも甚大な被害を出して 
船の数が激減してしまったそうです。

江南軍も島に上陸していたのですが 
数万という兵士を残して司令官とかが 
残った船でとっとと帰って
いってしまったのだとか。

まさかの置き去り~~!

そりゃあ台風は怖いですよ、船なんか
バッキバキ壊れますし そんな時

陸上動物である人間が 荒れ狂う海に
いるなんて自殺行為ですよねえ。

勝手に攻めて来といて 嵐に遭ったら
仲間を置き去りにして帰っちゃうとか
いったいどういう人たちなのでしょう? 

何しに来たのよ?
 
 

寄せ集めの軍は 脆いものです

 
侵略軍だけど 仲間に置き去りにされるとか
な~んかすごく気の毒…。

この後もちろん日本の武士たちに捕縛されて 
モンゴル人とか朝鮮人は

すぐに処刑されたんだけど 南宋人は
命までは取られなかったみたい。

その対応の差がどこにあったかというと 
対馬や壱岐における人間とは思えない蛮行の
落とし前をきっちりつけてもらったのと 

日宋交易で南宋の人たちとは以前から
お付き合いがあったからかしら。

見た目ですぐにどちらさんか
見分けがついたはずですからね。

それに朝鮮の忠烈王が 
日本を攻めましょうよ~って熱心に
フビライを唆(そそのか)したのが 
しっかり歴史にも残ってるそうですね~。

一応日本側も そこらへんの情報は
入っていたらしいから。

余分なことを言ったために 結局
自分たちが出陣するハメになったけど 

自分たちの立ち位置をちゃんと
理解していなかったっぽいですね。

何かモンゴル兵とかも
一緒に動かしてくれるとか 
期待しちゃってたのかしら。

征服した国の属国という立場なのに 
何か勘違いしていたみたいね。

日ごろの行いは大切よ、母国では
普通のことでも外国でやんないでね。

ともあれ当時の御家人と呼ばれた武士たちが 
厳しい戦いをがんばってくれたので 
日本の独立は守られたのです。

もしも武士という戦闘集団が育って
いなかったら大変なことになっていました。

幕府はこの後から国境線の…というか 
地理的に外国に近い島嶼の防衛に
力を入れざるを得なくなっていくのですね。

国境警備はよその国なら真っ先に
軍の配備をするところですけど。

海に守られている安心を揺さぶられた事件で 
少しだけ危なかったですけど

よく踏ん張りました、
あっぱれ初めの武士たち!
 
お読みいただきまして ありがとうございました。
 

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