今日は大歌人 藤原定家が亡くなった日

藤原定家忌 障子窓

 
藤原定家忌
 
1241年の今日 9月26日は
和歌の大家 藤原定家が亡くなった日です。

小倉山の山荘で選んだといわれる
「小倉百人一首」をはじめ
数々の和歌集を編纂し 論評した人ですね。

生涯になんと10人もの
天皇にお仕えしたそうです。

私なんか途中からお名前を
言えなくなりそうですけれども…(^艸^)ぷぷ…

偉大な歌人の本当の姿は…
昔は ちょっとしたことで(おっと失礼)
すぐに譲位されちゃいましたから…。

当時としてはたいへん長寿の
79年の生涯だったからでしょうね。

驚くべき筆まめな人で 
18歳から74歳までの
なんと56年間もの間 
事細かに日記をつけてくれました。

おかげで 大変貴重な史料で
国宝に指定されています。
 

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イメージが先行する宮人

 
本当に書くことがお好きでいらしたのでしょう。

当たり前ですがこのころは 
さらさらと筆文字ですから
書けば書くほど 上達したのだと思いますが

定家さんは それほどの
能筆家ではなかったようです。

ちょっと特徴があって
味わいのある字だそうですけども。

私はくずした筆文字の読み書きは 
憧れてはいますが
何もできていないのが現状です。だははっ

定家さんは由緒正しいお公家さんで 
和歌の大家で イメージとしては
風流風雅 ゆったりはんなりなんですが 

ご本人はか~なり激しい性格だったみたいですよ。

若いころ宮中で「乱闘騒ぎ」を
起こして謹慎を食らったり 

時の天皇さんを相手に和歌集に入れる 
入れないでけんかしたり

ええええ?とばかりに 
結構やらかしてますので。ぷぷぷ…。

国宝になってる日記などでは 
もっと政治の真ん中の方へ行きたい

つまり宮中での出世を望んでいるのが 
にじみ出ているそうです。

けれど実際には 
出世のスピードは遅かったですし 

何かのお役目を申し付けられても 
わりと短期間で変わっていたりします。

恐らく 持って生まれた性格が災いして 
周りと衝突するなど なんらかのトラブルで 

更迭されたり辞任したりと 出入りが
激しかったのではないでしょうか。(∵)

もしかすると周りだって 
あまり蔑ろにはできないから 

恐らくは 相当気を使っていたのでは
ないかなと思うのですけれど 

定家さん本人があっちこっちにぶつかっては 
ぽんぽんと外へ弾き出てしまうような

そんな感じで 大人しく留まれなかったから 
出世は難しかったんでしょうなあ…。

「和を以って尊しと成」さずに 
引っ掻き回しちゃったみたいですからねえ。

けんかっ早いというよりは
大変な頑固者で 言い出したら
聞かない人だったみたいですので。(>.<) ある程度年を重ねていれば  頑固者でもどうにかなるものですが 若いうちから 我を通すタイプだと トラブルも絶えないし まず周りから人がいなくなりますよね、 誰だって怒られたりするのやだもん。 見方を変えると… まあ定家さんはほら 芸術家ですからね、 宮仕えには向かなかったんですよ。    

芸術家はどこにいたって大丈夫

 
特に和歌では大先生だし 豊かな天分に加えて 
たぶん他の誰よりも たくさんの歌を研究し 
誰よりも熱心に勉強していたのだと思います。

だからそれなりの自負もあっただろうし 
負けられないという
気持ちもあったでしょうねえ。

ただ出世したいなあと思いつつ 
それが思うように行かなかったので 
若干すねたりしたかも…。 

和歌を詠んで自分の家の歌集を
せっせと作ったり 指南書を書いたり 
書評を出したりという どちらかというと

個人的にやってたことの方に 
集中できたのではないかしら。

延々と日記を書き続けられたのも 
ひょっとすると時間的にすごーく余裕が
あったから できたことだったりして。(~_~;)

そうそう日記の記述には たびたび呼吸器系の
病気が出てきているようで
どうやら病弱な面があったようです。

風邪をひき易く 冬には咳などの呼吸器の
病にかかっていたようです。

もしかして喘息持ちだったのかもしれませんねえ? 

それで写経や書などをしては 
不快な症状と戦っていたのでしょうか。

性格は頑固で強情だったけど その分(?)
身体が弱かったというのは興味深い。

確かに肖像画は やせた面差しに
描かれていて少し怖そうです。

まあ思いがけず波乱万丈の生涯を
送ることになったわけですが 実は

お父上のころから あまり要職に
就けないで不遇を託っていた模様。

定家さん自身も苦労したので 
息子には何とか出世コースを歩んでほしいと
けっこうがんばったみたいです。

でも人のふり見て我がふり直せで 
息子のライバルの親のやらかしを見て反省し

出世もだけれど 公事や有職故実など
自分が得意な分野を 息子にも指導するなど

その先の子孫に到るまで 社会的立場が
優位になるよう図ったりしています。

指南書などを残しておけば 
代々使うことができますからねえ。
 
 

文化継承の立役者

 
定家さんの生きた時代は 

貴族が治めた古き良き平安の時代から 
武力で権力を手に入れた武士の時代へと 
大変換を遂げた時でした。

大きな時代のうねりの中で 
滅び行く雅な時代を惜しむ心が 
和歌の研究に向かわせたのかもしれません。

そして和歌の文化を 時の権力者たる
武士たちにも教え伝えることで
文化の継承を図ろうとしたのかもしれませんね。

鎌倉幕府の3代将軍は 
和歌のお弟子さんでしたけれど 
上手にお付き合いが出来ていたようです。 

このおかげで「察する文化」が
武士にも継承されることになりました。

定家さんが言い出したら聞かない
頑固者でよかったと思います。
 
お読みいただきまして ありがとうございました。
 

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