今日は謎の僧 天海が亡くなった日

天海 忌 障子窓

 
天海 忌
 
1643年の今日、11月13日は 
家康さんの側近だった
南光坊天海が亡くなった日です。

この天海さんは自分のことを
お弟子さんたちにも
あまり話さなかったと
記録に残っているそうで 

大変な長寿だったようなのですが
いつどこで生まれたのか
詳しいことはよく分かっていません。

(信頼に足る史料がないと
いう意味ですけれど…。)

それゆえか様々な説が
まことしやかに言われています。

足利将軍のご落胤だという説 
実は生きていた明智光秀だという説。

妄想の中の浮遊生物と
化している私としては 

この”実は生きていた~”というのが 
一番美味しそうで好物なんですけどね。
 

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修業時代がはっきりしない人

 
だってあの春日局が天海さんに
あった時「お久しゅうございます」と
あいさつしたと言われているんです。

…え?お知り合い?

三代将軍家光の乳母として 
大奥で権勢をふるった春日局ですが

実は光秀さんにゆかりのある
女性だったと言われていますし

光秀さんとも面識があっても
不思議じゃないです。

家康さんもそこら辺りを
承知していたとも言われていますね。

中国大返しの秀吉さんに追い詰められて 
雑兵ともお百姓とも言われる
名もない者に打ち取られたと
されている光秀さんですけれど 

実はこっそり生き延びていて 
出家して僧として出直していたのでは…?

もちろん秀吉さんも家康さんも 
そのことを承知の上で…です。

だって面識があったり
光秀さんの顔を知っている人なんて 
どのくらい居たか 定かじゃないですよね?

持ち込まれた首を
光秀さんだと断定したのは 
秀吉さんだったとされていますし…。

もしも二人が手を組んで 
やらかしたことなら尚更…でしょう。

秀吉さんは信長さんの命で
中国地方で忙しく働いてて 直接手を
下せない状況だったので 
光秀さんに「大仕事」を託す。 

密使の連絡 それはすなわち
「大仕事」の成功だから 即、引き返す…。

光秀さんは裏切り者の汚名を着るので 
一旦死んだことにして別の人生を生きる。

きゃはは…ちょっと妄想が過ぎましたかねえ。
 
 

天海さんを名乗ってからは…

 
1588年に武蔵国の無量寿寺北院で 
天海を名乗ったとされてからしか

はっきりとしたことがわかっていないので 
妄想で染めてみました。

天海さんは 北条攻めの時くらいから
家康さんの陣にいたそうで

そうなると
有名な梵鐘の字に因縁をつけた
方広寺鐘銘事件にも 
関わっていたようですね。

何食わぬ顔で 家康さんと
一緒になって秀吉さんとこを
追い詰めるとか 

もしも本当に
光秀さんだったなら しっかり
自分の仇を取ってますなあ。

自分の仇を本人が取るとか 
ちょっとすごいんですけど…。

家康さんの傍にいて 朝廷や
宗教政策などに関わったとされていますが

この分野は実は光秀さんも 
得意分野だったようですし…。

そもそもいくらお坊さんでも 
本当に素性の知れない者を

「大御所さん」の傍に
仕えさせるわけがないですよねえ。 

特に天下人のような立場に
なればなるほど 信用のおける
古参の者だけで 身辺を
固めるはずなのです。

まあ…古参の仲間…と言えば 
言えないこともないのかも
しれませんが

怪しげなお坊さんが傍に居られたのは 
家康さんから直々に問答無用だと
厳命する以外は有り得ないと思うのです。

そうなると今度は 家康さんが
そこまで言う根拠は?
ということになるですよ。

共通の「上様」に仕えていたころまで 
遡っても不思議ではないなあと。

1616年に家康さんが
危篤状態になって 後のことを託します。

そして家康さんの神号について 
天海さんは「権現」を主張し 

もう一人のお坊さん
以心崇伝さんと本多正純さんは
「明神」を主張してちょっと対立しました。

実はこれって宗派の対立という
構図もあるようで 天海さんが天台宗の僧で

以心さんは臨済宗の僧だったので 
それぞれ系統の神号を押したみたいです。

困ってしまった徳川秀忠さんに 
どうするだい?と言われた天海さんは 

秀吉さんが「明神」を贈られたけど 
お家が断絶してしまったので
これは不吉だと思うのよね、と提言したそうです。

というか 豊臣家を断絶させたのは 
あんたたちですがな。

結局 家康さんには「東照大権現」
という神号が贈られることになりました。

亡くなってすぐに埋葬された久能山から 
日光山に改葬されたのは 
ちょうど一周忌にあたる翌年のことでした。 

今日のようなきらびやかな
日光東照宮になったのは 
もう少し後のことです。

どういう理由か日光東照宮には 
あちらこちらに明智家の家紋があるとか…?

やっぱり天海さんが
光秀さんだったからじゃあないですかねえ。

家康さん亡き後は
家光さんに仕えていて 
寛永寺とかも創建したそうです。

そして1643年になんと
108歳で亡くなったとされています。

ただ史料によっては生年が様々で 
研究者さんが12もある中から

妥当と思われる生年を
1536年と導き出しましたので 
108年という生涯なのです。

とんでもなく長生きをしましたが 
二人分の人生だったからでしょうかねえ。

どうしても天海さんを
光秀さんにしたい妄想が
先走っております。(笑)
 
お読みいただきまして ありがとうございました。
 

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