今日は藤原一族の二人の男が亡くなった日

藤原行成 忌 障子窓

 
藤原行成 忌
 
1028年 1月 3日 この日は
藤原家の二人の男性が亡くなりました。

一人はあの道長さんで 
もう一人は行成さんです。

本当に同じ日に亡くなっていて 
道長さんは当時「御堂関白」と呼ばれ 
出家はしてましたが 時の最高権力者でした。

そんな人が亡くなったので 都は
上を下への大騒ぎになっていたのです。

なので行成さんの方は 誰も
気づかなかったとさえ言われています。

あんまりなので 私は行成さんの方を
取り上げようと思うのです。

藤原北家の嫡流でもあり 
本来なら道長さんと
同じくらいまで出世していても 
当然の人だったんですけども…。
 

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藤原本家のちょっと出遅れた逸材

 
潮流に乗るのが上手かったというか
権謀術数を使い 

かなり強引に自分の方へ
流れをつかみ寄せたというか 

道長さんの方が役者が
上だったんでしょうね。

残念ながら伊周さんあたりから 
嫡流同士の争いに負け続けて来ましてねえ。

同じように左大臣だった父君をハメられて 
大宰府に左遷される憂き目を見た
源俊賢さんの推挙で 地下人まで
身を落としていた行成さんは 

一気に昇殿を許される蔵人頭まで浮上し 
その後はとんとん拍子に出世しました。

下積み(生れはいいのに出世が出来ず 
低い地位に甘んじていた)を積んだおかげで

実務に優れていたのでしょうし 
本人は大そう真面目で しっかりと
仕事をこなしたので 一条天皇の覚えもよく 

最終的には推挙してくれた俊賢さんよりも 
上の地位まで出世しています。

そうして出世した後も 俊賢さんへの
心遣いを忘れず 同席すると
自分が上座になってしまうので 

理由をつけては同席を避け 
どうしてもそうしなければならない時は 
向き合って座るようにしたといいます。

なかなかできることではないですが 
そのくらい恩義に感じていたのかも…。

行成さんより5歳ほど若いのですが 
とても親しくしていたお友達が突然
出家してしまうという
「大事件」があったようです。

藤原一門なのですが 
家重さん(24歳)といって

「リアル光源氏」だったようで
その整った容姿から「光少将」
と呼ばれていたそうな。 

あらーまああ…。(≧≦)

でもってもう一人 やっぱり美しい容姿で
「照る中将」と呼ばれていた
源成信さん(22歳)の二人が 

どういう理由かはっきりしないのですが
手に手を取って 突然
出家してしまったのです。 

美しいのに…。(そこかい…)

当時の右大臣(道長さん)の猶子と
左大臣の一子が… 将来を嘱望される
貴公子たちが… 揃って出家とか
普通じゃないです。

しかも美しいのに…。(だから…)

行成さんと親しかったのは「照る」さんの方で 

この人は中宮定子のサロンでも
人気者だったようで「枕草子」にも
しっかり記述があるそうです。

どうやら定子さんが崩御した辺りで 
世の無常を儚んでしまったみたいで…

見た目と同じく心の美しい
貴公子さんたちだったのねえ…。(艸)

えっと 本当はこの頃 貴族の間で
「世捨て人」とか「隠遁生活」などに
憧れを抱く風潮が 流行ったらしいのです。 

だからと言って…まだ若いのに…。
 
 

強烈な道長さんの影に隠れた形ですが…

 
藤原行成さんに話を戻します。

また何と言っても当時から 
その書き文字の美しさで 小野東風 
藤原佐理と共に 三蹟(さんぜき)と
呼ばれていました。

小野東風さんのは野蹟(やせき)
佐理さんのは佐蹟(させき)そして
行成さんのは権蹟(ごんせき)といいます。

これは権大納言(ごんだいなごん)の
筆跡という意味だそうです。

行成さん自身は東風さんのことを師と仰ぎ 
ああなりたいと思っていたようですが 

時代が違いますし 行成さんの字は
和風というか 日本風に
だいぶ練れているそうで 
書道の世尊時流の祖でもあります。

行成さんのおかげで 国風の書体に
美しく収斂されたのかもしれませんね。

事実、行成さんが道長さんから
「往生要集」という本を借りた時

「オリジナルの方はあなたにあげるからさ 
あなたが書いた方をくれない?」
とか言っちゃってますから。

「この世をば…」とやらかした
道長さんも行成さんの書を認めているんです。

また有職故実にも通じていて 
その指南書も書いているそうです。

残念ながら行成さんが書いた(であろう)
オリジナルは失われてしまったようですが

ずっと後の時代になって 後西天皇ご自身が
お書きになったとされる2冊の書物が
行成さんの本の写本らしいことが
発見されて研究者さんたちの注目の的!

発見されたのは1998年で 
京都御所の御文庫からだって…。\(◎o◎)/

それから歌人でもあって 
勅撰和歌集に9首選ばれているそうです。

字が上手かったのは筆まめだったことも 
手伝っているかもしれませんよ。

とても詳細な日記も残しているそうで 
やっぱり普段から書いていないと
上達しませんからねえ 特に筆文字は。

こうして見ると とても優秀な人
だったんだなと感じますね。

その意味では同じ藤原家同士で 
権力闘争とかやらかしてるけど そこそこに
優秀な人材も輩出してはいるんですよね。

数にモノを言わせたとも言えるけど…。

一族がまとまって中央にいたから 
誰が誰の子とか兄弟とか ややこしくてねえ。

そのおかげで今では「藤」のつく
苗字が多いこと 多いこと。

それだけ大繁栄をしたわけですから 
当然と言えば当然なのですが。

亡くなった日は同じですけども 
道長さんは出家してたから
お寺に住んでいたし

確か もう臥せっていたはずで 
息を引き取ったのは午前3時過ぎくらい。

行成さんは亡くなる3日前の午後9時過ぎに 
お手洗いに行って突然倒れたそうです。

1000年近くも前のことなのに…
記録魔の日本人て すごいと思いませんか?
 
お読みいただきまして ありがとうございました。
 

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