今日は野口英世博士が誕生した日

野口英世 生誕 障子窓

 
野口英世 生誕
 
1876年の今日、11月 9日は
野口英世博士が誕生した日です。

生後1年ほどで囲炉裏で左手に
大やけどを負い 農業をするのには
向かなくなってしまいました。

お母さんは学問で身をたてるように 
言って聞かせたそうです。

当時まだ小学校は義務教育では
ありませんでしたが お母さんが
奉公していた家の敷地内に学校があって 
英世さんちも目の前でした。

とても優秀な成績だったので 
高等小学校の教頭だった小林先生が
学費まで援助して 
入学させてくれたのだそうです。

そして左手の障害を嘆く作文を書いたところ 
皆から同情をさそい 募金活動が行われ 

会津若松で米国帰りの開業医の渡辺先生に
執刀してもらい 不自由は残ったものの
左手が動くようになりました。
 

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アノ悪い癖は どこから出てきたのかな?

 
これに感激した英世さんは 
医学の道に進むことになったのだそうです。

そしてこの渡辺先生の下で書生として
医学の基礎を学ぶことになり

後に生涯の研究テーマである細菌学にも 
この時に出会っているといわれています。

21歳で医師免許を取りますが 
左手のために研究者の方向へと進みます。

外国生活が長かった英世さんでしたが 
日本にいた時は北里柴三郎先生の
研究所にも籍を置いていたんですねえ。

ただし 研究ではなく語学の能力をかわれて 
洋書の整理や外国人の通訳などが
主な仕事だったようで この時来日した
米国のフレクスナー博士と知り合いました。

ちょっとトラブルがあって
北里先生の元を離れ
横浜の検疫所に転職します。

仕事ぶりは評価の高いもので 選ばれて
清国へペスト検疫に派遣されたりしています。

外国との行き来が多いのに
渡航費用や支度金など 
まとまったお金を手にすると
どうしても使い切ってしまいたくなる…
病気でしょうか?ぷぷぷ…。

とても高給取りだったのに 
全部使い果たしてしまうとか…。

でも外国で仕事をして居心地がよかったのか 
渡航費用もなかったのに フレクスナー博士に
米国へ行きたいって 手紙書いちゃってるし…。

その気持ちは本気だったんだけど 
お金がなくてえぐい方法を思いつく。

お嫁さんにするから持参金が
ほしいなあ~みたいなこと言うかな 普通。

で 言われた方は本気だから 
お金を出しちゃって また放蕩~!

結局土壇場でお友達が用立ててくれたお金で 
米国へ行っちゃいました。\(◎θ◎)/ 

1900年の暮れ 野口英世 24歳の時のことです。

ここから快進撃が始まるんですよね 
米国やら欧州やらでどんどん有名になります。

結婚詐欺まがいの方は お友達が
お相手の家に持参金を返し 婚約は破棄に。

本人が地球の裏側で
細菌と格闘してましたので 
どうしようもないですよね。

やがて英世さんは34歳の時ニューヨークで
知り合った米国人女性と結婚します。

私 この年まで英世さんの伝記は 
子供向けのものしか知りませんでしたので

参考にした年代記を見ていて 
何度も(◎艸◎)こんな状態になりました。

金銭感覚が壊れていたというか 
すっぽ抜けていたみたいですね。

周りの人からの借金で学費やら
渡航費を工面していたのに
それを何で ど~うして放蕩するかな 
やらかしまくるかなあ。(笑)

それも一度や二度じゃあないですよ 
普通 反省するでしょ? 

反省したらやめるでしょ 大人なんだから~~。

ところが不思議なことに必ず救いの手というか 
次の借金のめどが立っちゃうんですよね 
こういうのは英世さんの人徳なんでしょうか?

それと血脇さんという人も
英世さんの策に乗ったら 
どんどん出世するとか いったい
どういう人たちなんでしょうねえ。

人を出世させて 自分の面倒を
見させるとか すごい発想だなあ。

その才覚 自分のために
使えばよかったんでないかい?

こういう逸話は子供向けには 
端折らざるを得ないですわなあ…。
 
 

偉人には両極端にふれる人が多いね

 
ちょっと常人にはない 強運の巡り合わせ
みたいなところはあると思います。

英世さんに与えられた仕事があって 
それをきちんとこなすための布石というか 
仕組まれたシナリオだったというか…。

後世の人間でこの野口英世という人が 
どういう功績を遺したか知っているからこそ 

えええそこで 放蕩するかあ?とか 
有り得~ん!とか 笑って言ってるけど

当時の恩師やお友達は 振り回されて
さぞや大変だったことでしょうね。

偉大な功績を残す人って 
どこか浮世離れしてるというか 
どこか普通じゃない部分が
あるものなんですねえ。

だから全体として バランスが
取れているのかもしれません。

ともあれ世界の野口英世は 
膨大な実験から得られる
データ収集を重視する
実践主義だったそうで

実験パターンをすべて完璧に実行し 
その作業は驚くべき速度と正確さを
持っていたといわれております。

「日本人は眠らない」とか
「実験マシン」とか
言われていたそうです。

やっぱり日本人だわあ
こんな時代から24時間 
戦っていたんですね。ぷぷぷ…。

ノーベル賞の候補にも
3回上がっていたそうですが 
もう少し長生きしていたら
もしかすると受賞していたかもしれません。

1928年の 5月21日のお昼ごろ 
当時の英国領ゴールド・コーストの
アクラの病院で51歳の生涯を閉じました。

自分が研究していた黄熱病に
罹患していたのです。

のちに南アフリカ出身の米国研究者
マックス・タイラーさんが この黄熱病の
ワクチンの開発に成功して 
ノーベル医学生理学賞を受賞しています。

英世さんには もう少し
長生きしてほしかったですねえ…。

もしもノーベル賞もらっていたら
また放蕩したかもしれないけど…ぷぷぷ…。
 
お読みいただきまして ありがとうございました。
 

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