今日は都が「平安京」へ遷都された日

平安京 遷都 障子窓

 
平安京 遷都
 
今日11月18日は1200年余り前 

桓武天皇がそれまでの「長岡京」から
今の京都の辺りである「平安京」へと
遷都された日に当たります。

桓武天皇と言えば 生母が9代前は
百済人だったので 本来ならば

天皇に即位できるような出自では
なかったようで 若い頃は他の公達と
同じように官僚として宮仕えをしていました。

もともと異母弟の他戸親王(おさべしんのう)が
皇太子として擁立されていましたが

こちらの生母と共に天皇(父君)への
呪詛の嫌疑をかけられてしまいました。

この頃はマジで人を呪うというのは
大罪だったんですね。

というか状況からみて
「呪詛をしたと思われただけ」でも
罪に問われたみたい。
 

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不思議な経緯の即位

 
だけどいったいどんな理由で自分の夫や 
実の父親へ呪詛をするんですかねえ?

ちゃんと自分を後継者に
選んでくれているというのに 
何の不満があったのやら…。

皇后や皇太子の地位を廃されて 
流刑にされた上 どうやら母子ともども
暗殺されてしまったみたいですねえ。

こんな経緯を見たら 呪詛の嫌疑から
亡くなるまで まるですべてが
仕組まれていたように思えて
来ちゃうじゃないですかあ ねえ。

実際 藤原百川さんという人が
暗躍したともいわれているのです。

どういう理由でなのか この百川さんが
山部王と呼ばれていた皇子を
皇太子に推してくれちゃうわけです。

じゃあ百川さんという人物が 
皇室に仇なす人かというと
そうでもなくて

あの怪僧道鏡に重用されていながら
その宿敵 和気清麻呂さんを陰で助けるとか
よくわからんお人なのですね。

(清麻呂さんは道鏡に殺されかけてます)

思いがけず天皇になっちゃった
桓武天皇でしたが 実は百川さんは
桓武天皇が即位する前の年に
亡くなっておりまして…。

もしかすると山部王さんの
官僚時代の仕事ぶりなどを知っていて 

ある意味で百川さんに 
見込まれたのかもしれないですねえ。 

あるいは皇子とは名ばかりの扱いだったのを 
天皇の位にまで押し上げてやれば 

その暁には 自分も美味しい思いが
できると踏んだ百川さんの 
とんでもない謀略だったのかも
しれませんが だとすればその野望は 
自らの寿命で潰えたことになります。
(怖いですね、怖いですね) 

その治世においては 蝦夷討伐を果たして
平定するなど武力行使や

度重なる遷都が多額の税金を使うことになり 
結果的に民を苦しめたとか 

即位翌日に自分の皇太子にと
同母の弟 早良親王(さわらしんのう)を
指名したくせに
後になって謀反の嫌疑で
追い出そうとした挙句 
死なれっちまって

その怨霊に恐怖するとか 
立派なのかそうでないのか
イマイチ微妙でよくわからないです。

ほんのわずかでも混ざった
余所(半島)の血が 
そうさせているのかもしれません。

投降した蝦夷のアテルイらを
処刑するよう命じたのも この人ですし。 

そういえば同じように
余所(大陸)の血を引く 
征夷大将軍の坂上田村麻呂さんは
蝦夷の人たちの助命を
嘆願したんでしたよね。

実は「平安京」への遷都は 
宗教(この場合は仏教です)が
越権行為というか ムダに
力を持ち過ぎてきたのを 
天皇がよしとされなかった面もあります。

欧州における教会の勢力が
強大化したのと同じで
日本においても
仏教が国の根幹にまで
入り込んで来ようとしたので 

これを疎ましく思い 遷都を強行したのは 
それなりの効果はあったと思います。

仏教でもキリスト教でも宗教が政治に 
ちょっかいを出すのはよくありません。

いろんな意味で知識が深いと 
政治に口を出したくなるのでしょうが

充分な地位が与えられているのですから 
俗世の欲に負けないことです。

宗教とは心の拠り所なので 
そこだけを中心に展開していて
くれていればよくて

ゆるやかに俗世とつながっていて
もらえば それでいいのです。
 
 

「平安京」 千年の都になる

 
私たちは「794年の平安遷都」を
「794(なくよ)平安京」と
覚えたものですが

どうやら
泣いたのは「平安京」に入れて
もらえなかったと言われている
仏教界のようでしたね。

実際に工事の指揮にあたったのは 
奏上した和気清麻呂さんだったそうで

たぶん彼が見て来た長安の
都のようにしたいと 
思っていたのではないでしょうか。

実際唐の都にならって 美しく整然と
区画整備されていますが

当時都を建設するにあたって
この地は湿地なども
あったといわれていまして
けっこう大変な
工事だったりしたようですね。

桓武天皇の後の嵯峨天皇は 
この「平安京」をこれからも
ずっと都にしようと
「万代宮」(よろずよのみや)と定めました。

実際 この後遷都されたことは
ほとんどないと言っても
過言ではないでしょう。

平清盛が福原に遷都しようとしましたが 
半年でやめていますし

朝廷が分裂状態に陥った南北朝の時も 
一方はここにありましたから。

かくて明治維新の翌年 明治天皇が
東京へ移られた1869年まで
およそ1075年もの間 日本の都 
中心であり続けたわけです。

(厳密には奠都(てんと)と呼ばれ
遷都とは違うようですけども…。)

京都の人たちの言う「先の大戦」は
「応仁の乱」のことだと聞いた時は
さすがにえええと思いましたが 
あながち間違いではないのかなと。(笑)

悠久の時間が流れる 正に
千年の都なのですね。

かなり強引に遷都を決めたと
いわれる桓武天皇ですが 
遷都、正解でしたね。
 
お読みいただきまして ありがとうございました。
 

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