今日は歌人与謝野晶子の命日 白桜忌

白桜忌 障子窓

 
白桜忌
 
今日 5月29日は
歌人与謝野晶子の亡くなった日です。

「白桜忌」というのが正しいようですね。

なんでも生前本人が 戒名を
白桜院にしてほしいと言ったらしくて

それにちなんで「白桜忌」と
されたはずでしたが…。

それがいつの間にか
「白桃忌」になっていて????

白桃って夏を越さないと
実らないと思うんだけど…。

今は梅雨に向かう時期だし 
白桃はハウス栽培でもしない限り

この時期には出回らないですよね…
花が終わる頃です…たぶん。

伝言ゲームよろしく どこかで
間違ったのがなぜか定着したでしょう。

そんなことは後世の私たちの失敗なので 
ご本人は全く与り知らぬこと。
 

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白い桜のイメージとは 全然違うです

 
明治時代を代表する歌人であり 
女性運動活動家という一面も。

あまり政治的な活動をするのは 
文化人としてはマイナス方向に
働くこともあるのではないかな…

なんて思うのですが そこはほら
明治の人ですからね 
私らなんかとは気骨が違うのですよ。

でもねえ…後に夫君になる
与謝野鉄幹さんとの出会いは…
フ・リ・ンの恋だったんですよねえ…。

1912年に鉄幹さんを追いかけて
仏国は花のパリ~に行くことに。

そして鉄幹さんと一緒におよそ
4ヶ月に渡って欧州を旅行して

白人さまの様子を自身の目で見て
触れてきた経験から 当時
盛り上がっていた「女性解放運動」などに
関心を持ったのでしょうね。

女性は 男性にも 国家にも
依存するべきではないと言い放っています。

確かに依存はよろしくないです…ただ 
今の私たちとは置かれた状況が
全く違いますからね 当時の女性たちは…。

この晶子さんたちのような方々が 
がんばってくれたおかげで 

今の私たちがいるという意味では
ありがたい存在でした。

また女性にも等しく教育が
必要だとも言っています。

この点については
大きく賛同できる部分ですね。

女性を同じ土俵にあげたくなかった
男性陣の思惑が透けて見えます。

「みだれ髪」で大胆にして
おおらかな女性の官能を堂々と表現した
与謝野晶子らしい見識だと思いますね。

ご自身も数学がとても得意だったそうで 
女子にも自然科学の教育を受けさせるべきと 
のちに創立する文化学院は男女共学でした。

大変に論理的な思考の
持ち主であることが窺えます。

であるにも関わらず 文学的な才能も
持ち合わせていたという… 普通は
どちらかひとつで 満足するものですよ? 
うらやましいなあ。

それからすごい子だくさんで 
12人も生んだのですね。

それなのに鉄幹さんが
大学教授の職に就くまで 
収入がほとんどない状態でした。

なぜなら欧州旅行へ出かけた頃から 
スランプ気味でそれまでの
「ますらおぶり」と言われた 

雄々しい調子の歌が
よめなくなっていたのです。

そして晶子さんの「みだれ髪」の成功の陰で
ますます落ち込んでしまいます。

晶子さんの才能を見出し 世に出したのは
鉄幹さんだったのですが
皮肉な展開になってしまいました。

だからこそ孤軍奮闘 晶子さんは
子供と鉄幹さんを一人で養ったんですね。

晶子さんは原稿の依頼などすべて
引き受けた上 その原稿料などを
前借りしないと たいへんだったようです。

それでも子供を育て 歌を詠み 詩を書き 
本にまとめ 学校を設立する…昔の人は
本当にすごかったんだなあと思います。
 
 

明治の人の気骨は 半端ないって

 
収入が不安定な旦那を持ったことで 
晶子さん自身がすでに男性からの依存を
軽く脱していたことはよくわかりました。

でも…とてもまねはできません。

女性運動など政治的な言動も
けっこうありましたが 

日露戦争に 出征する弟に
「君死にたまふことなかれ」と詠む一方で 

息子の出征には反対に鼓舞する
ような内容の歌を送るなど 

戦争に対する思いは
一様ではなかったようです。

ただ日露戦争の時と後の昭和の戦争では 
人々の意識はもちろん言論に対しても

統制などされることはなかったようで 
かなり過激な発言も許されていたみたい。

晶子さんの言葉を借りれば
「歌はまことの心を歌うもの」であり 

雑誌の紙面を借りる形で 
論争に発展してましたけども。

歌人や文芸などの文化人は 
社会が安定していて
平和であってこそ活動の場が広がり 
ひいては生活ができるわけですから。

社会的名声がすでに確立していると 
注目度も高いですし必要以上に

刺激的な発言をするのは 
あまり得策ではないですよね。

特に戦時下では メディアが率先して
国威発揚を煽り 同調圧力から

言論統制まで至りましたから 文化人が
国や軍部を批判したら大変ですよ。

中にはあえて発表する人も
いたかもしれませんが。

そして1919年から1932年まで
慶応大学の文学部で教鞭をとり

後の日本を代表する数多くの
文化人たちを育てた 鉄幹さんが
1935年に亡くなってしまいます。

最愛の人をなくした歌人の悲しみは 
いかばかりだったか…。

そして昭和の不穏な情勢が続く中 
晶子さん自身が病に倒れます。 

1940年の5月に脳出血のため
右半身が不自由になり 翌年のお正月に
意識不明に陥ったのち 
5月29日に63歳で亡くなりました。

文化は平和が続かないと 根付き繁茂し
花を咲かせることはできないものです。

ただ日本では平安時代に男女の別なく 
貴賤の別もなく 優れた歌は歌集に
取り上げられるという文化が
実在していました。

こういう点は 忘れることなく
積極的に発信していくべき
事実・事柄だと思います。

「白桜忌」に歌人を偲んでみましたら 
明治の女性 与謝野晶子の人生は

いろいろな意味で勇ましく
戦っていた生涯だったように
思えてきました。
 
お読みいただきまして ありがとうございました。
 

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