今日は白洲次郎が亡くなった日

白洲次郎 忌 障子窓

 
白洲次郎 忌
 
1985年の今日11月28日 
実業家白洲次郎氏が
83年の生涯を閉じました。

波乱に富んだ人生だったというか 
生まれた時代が次郎さんを
必要としたのかもしれませんね。

神戸の芦屋出身だそうなので 
私たち庶民とは初めから
ステージが違うような気もしますけれど。(‘;’)

大変なやんちゃさんだったようですね。

えっとこの時代は高校生で 
車を乗り回してよかったんですか?

おおらかな時代でもあったのですねえ。

実は昔から裕福な家庭の子供が 
海外へ留学をするのは

大抵その子が起こした問題の
ほとぼりがさめるのを待つことを
意味する場合がかなり多くてですね… 

まあはっきり言うと あまりいい意味に 
とられていませんでした。
 

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人生の転機は英国留学

 
もちろん純粋に勉学のため
留学する人もちゃんといましたけどね。

環境になじもうとせず 
問題ばかり起こせば 家名に
傷がつきますから 
体よく追い出された恰好です。

問題行動の根底には 
複雑なものもあるかもしれませんが

それは今の発想で 昔は
甘えだと考えられていました。

なので甘えの通用しない環境へ 
放り出すことで鍛え直したのです。

次郎さんの経歴をみると 
この典型かなと思いました。(艸)

旧制の神戸一中を卒業と同時に
英国へ留学していますね。

ケンブリッジ大学の聴講生だそうですが 
この時に身につけた英語が
のちに日本の役に立ってくれました。

たぶん乱暴者と言われるくらいだったので 
負けん気が強かったのでしょう。

その負けん気が学習の方向に向くと 
とんでもない集中力を発揮することが
ありますので 短い期間で
英語でケンカが
できるようになったのではと。

留学のいい面として 思いがけない
人物との出会いなども挙げられます。

特に名門大学なら
その可能性は大きいですね。

欧米では 同窓の人脈は
かなりモノをいうらしいです…。

およそ9年もの間 英国で
遊び暮らしていたようですが(笑)

1928年に 生家の
お店が倒産してしまい 
帰国を余儀なくされます。

もしかしてそうならなかったら 
ずっと遊び呆けていたのでしょうか?
 
 

帰国後の方が 大活躍

 
英字新聞の記者になり
生涯の伴侶も得ました。

奥様の正子さんは
伯爵家の令嬢だったんですねえ。

ちょいワルの英国帰りに引っかかった
感じがしないでもない…。

その後民間の会社に転職し 
主に商談で海外に行くことが
多かったそうです。

英国で知り合ったのでしょうかねえ 

当時駐英国特任全権大使だった吉田茂氏に
出会うことになり 何と
英国大使館を定宿にしています。

あっ…あの大使館というのは 
ホテルじゃないんですけど…? 

もしもし? 使い方間違ってますよ。

どこかの企業に入ると必ず
取締役になっているのですが 

この若さでほいほいなれる
役職じゃないと思うのは
私だけですかねえ?

あ…初めからそのポストで
ヘッドハンティングされてたのかいな。

何だか近衛文麿さんとも
知り合っていて 放蕩息子の
目付け役だったとか。

御し難いドラ息子だったようですが 
毒を持って毒を制すの典型ですね。

元放蕩息子だから 一緒になって
遊び歩いていたりして…。ぷぷぷ…。

近衛さんのような赤色偏移が
疑われる人や 明らかに
スパイとされる人とも 
知り合いだったみたいですけれど… 

たぶん時間的に英国の薫陶を受けた方が
先だったと思われるので 

朱に交わったとしても
赤くなるようなことには
ならなかったのでしょうね。

もっともこの日本人スパイは
逮捕されるまで スパイであることを
誰にも気付かれなかったそうですから 
敵の方が役者が何枚も上手でしたけども。

戦後は吉田茂氏の強い要望で 
終戦事務局参与に就任。

次郎さんの存在はGHQに
「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめました。

そして日本国憲法の策定にも関わります。

次郎さんは 米国の素人が作った
憲法だと言い切っていますよ。

英語を理解していると米英語と
英国英語では 印象が違うのかも…?

サンフランシスコ講和条約が発効して 
GHQが引き揚げた後も 政府の関係で

いろいろ小難しい仕事をして 
批判を受けたりもしました。

その後 政府筋からは身を引いて 
財界に戻ってきます。

晩年までスマートでおしゃれな
おじさまだったようで 80歳を過ぎて

ポルシェを乗り回し 三宅一生の
ファッションショーにモデルとして
出演するとか すごくないですか。\(◎o◎)/! 

起用する方もする方だけど…。

つかみどころのない
不思議な人なのですが…たぶん
途轍もなく大きな人だったと。

裕福な家に生まれ 英国への留学など 
環境面では本物を見極める目が
養われたかなと思われますし 

自分の才覚だけで世渡りを
したような感じも受けます。

奥様の正子さんとけんかをする時は
英語だったみたいなのは 
ドラマの演出かしら?

あるいは本当にそうだった
かもしれないと 思える所が
またすごいのです。

生家が商売をされていたからなのか 
やはり商才が豊かだったというか 

歴任した会社を見渡せば ビジネスが
上手かったのでしょうね。

そして国難とも言える敗戦の処理には 
どうしても不可欠な人物だったのですね。
 
お読みいただきまして ありがとうございました。
 

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