今日は「島原の乱」が勃発した日

島原の乱 障子窓

 
島原の乱
 
1637年の今日12月11日は
後に「島原の乱」と呼ばれる
大規模な一揆が起こった日です。

事の発端は領主さんによる
圧政と重税でしたが 

不満をくすぶらせていた
人々をまとめたのは 
キリスト教徒だったといわれています。

そもそも領地の石高(こくだか)を
多く見積もられていたのが 
いけなかったのですね。

実際に治めてみて そういうことに
気が付かない(考えない)領主さんも
相当にアレだったと思うのだけれど。

お城の普請とか 勝手にルソン島へ
遠征しようと先遣隊を送ったりとか

やってることが
ちょっとアレ過ぎて
擁護すらできないよう…。
 

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いろいろなアレが多くて苦しんだ民が…

 
領主さんも石高に合わない
出費をしておりまして それを年貢で
賄おうとしたようなのです。

やっぱりアレだわ…。

この騒動が収まった後 
石高の再見積りを要請した領主さんが
切腹して訴えるまで 再見積りを
許さなかった幕府もアレですわ。

まあ江戸幕府が始まって あまり時間が
経っていないと言えばそうですが

潜り込んで来ていた一神教が 
日本を荒らしたという側面もちらほら。

「矢文(やぶみ)」というすてきな方法で 
意志の疎通を図った記録では

一揆の人たちの要求は
「信仰を認めろ~っ!」の
一点張りだったそうで

発端の重税に苦しむ民百姓の発想とは
到底思えないですよねえ…。

そんな食うや食わずの生活を
強いられた人たちが 高額な武器弾薬を
どこでどうやって用意できたのか 
すごく不思議ですよね?

木の実や落穂みたいに落ちていたのを 
拾い集めたんでしょうか?

実際には藩の蔵を襲撃して
分捕ってきたみたいですね。

何でも天草には日本人奴隷を
「出荷する港」があったとかで
とても裕福だったんだそうですよ。へええ…

そんな人たちが 何でどうして
一揆に加わるですかねえ?

実際の始まりとされるのは 有馬村の
キリシタンたちが代官所へ行って 

お代官さまの林 兵左衛門さんを
殺害してしまったことらしいです。

えええ? 話に行ったんじゃないんですかあ? 

有馬村の人達ったら いったい
何をしに行ったんでしょうね、

強談とされていますけど 話をする相手を
死なせちゃったらだめでしょう。

だから「一揆」から「反乱軍」に
なっちゃったんですよ。

一揆が拡大するにつれ 近隣の村人を脅して
キリシタンにした上で

城下に火を放ったり 主に寺社を
襲って僧侶を殺害するなど

勝手に人の国で宗教戦争を
おっ始めたんですよ。

混乱に乗じて…というか わざと混乱や
騒ぎを起こしてそれに乗っかって 

やりたい放題やらかしているようにしか 
見えないんですけどねえ。

ったく 一神教ときたらどこへ行っても 
やることが一緒なんだもの…。

圧政に苦しむ人たちに乗っかる形で 
信仰を認めさせようとしたから

未だに殉教者に列して
もらえないらしいですけどね。

純粋な弾圧とは別の面がいくつか
見え隠れしているので 殉教とは
認めてもらってないみたいです、

見てる人は見てるのよ。

実際武器を突き付けて 
キリシタンになれと強要していますし。
 
 

ザビエルさんを論破した国を見くびるなよ

 
まあ戦火に巻き込まれるのを避けるため 
一旦仲間になり 籠城戦になってから

逃げ出したりしたお百姓さんとかも
いたみたいですね。

たまたま頂くお殿様がアレだった
人々の不幸を 踏み台にしようとした罰です。

そのアレなお殿様 松倉勝家さんですが 

過酷な税の取り立てで民を苦しめ
一揆を招いた責任を問われて改易となり 
後に斬首になっています。

江戸時代で大名が
切腹ではなく 斬首にされたのは
後にも先にもこの人だけだと。

日本のお殿様には 領民がきちんと
生活できるように守っていく
役目があるのです。

しかも独立採算性だったので 各藩の
お殿様たちも結構大変だったんですよね。

「島原の乱」は 江戸時代の初期で 
ようやく戦乱の世が終わり人々が安心して
暮らせるようになったころに起こりました。

もしかすると何者かが再び内乱状態を起こし 
その機に乗じてあわよくば
日本をキリシタンの国に塗り替えようと 
画策したのかもしれませんねえ。

一神教がその触手を伸ばし
勢力を拡大するのに

その場所の人々の心の隙に
入り込むのが常套手段でしたし 

そのとっかかりとして
人の不安や不満を煽り
敵と味方に分断することが
最も効果的だったのです。 

ところがポルトガルにしろオランダにしろ 
欧州の国の人々とは「権力者」の捉え方が

全く違うことに 思いが至っていない点で 
その目論みが失敗に終わったのは
当然のことと言えるでしょう。

「島原の乱」に参加していない日本人が全員 
平和に暮らせることが何よりと
思っていたはずで よその国の信仰など
必要なかったのですから。

何てったって 神さまに祈ろうが捧げようが 
災害はやって来ましたからね。

乱の発端には圧政や重税 そして飢饉が
追い打ちをかけたようですので

一神教が拡大するとっかかりが
豊富にあったと言えます。

加えてそのキリシタンも
厳しく迫害されていましたので 
意趣返しもあったかな。

ただ結果的にこの乱の後 
ポルトガル人は追放され 
日本は本格的な鎖国に入るのです。

日本と交易できたのは
オランダだけになりますが 

これはカトリックの国から
プロテスタントの国に交代したという風に
考えることもできます。

同じキリシタンでも 少しだけ教義が
緩やかになったんですね。

「島原の乱」はあっという間に規模が拡大し 
当初は士気も高かったようで
鎮圧までに時間がかかりました。

家康さんが作り出した新しい秩序の中に
潜り込んでいた不安分子を 図らずも 
あぶりだす結果になったような気がします。
 
お読みいただきまして ありがとうございました。
 

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