鎌倉幕府3代将軍 実朝暗殺さる!

 
源実朝 暗殺
 
今日 2月13日は 鎌倉幕府の3代将軍 
源実朝さんが 鶴岡八幡宮で 

お兄さんの息子で猶子でもあった 
公暁さんによって暗殺された日です。

1219年のことでした。 

この日鎌倉には雪が降っていたそうな…

個人的には雪って しんしんと降り
そして何もかも 隠してしまうような
秘匿のイメージがあります。

出来過ぎなくらいの演出ですよ。

実朝さん まだ28歳だったんですね。

お父さんは頼朝さんで お母さんは
女傑 北条政子さんです。

頼朝さんが苦労して幕府を開いたけれど 
しっかりとした枠組みを作れなかったせいも
あったかもしれませんね。
 

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若くして逝った二人の将軍

 
東国の武士たちは「いざ鎌倉」と
スローガンは立派だったけど

やっぱり誰だって 自分とこの足元を
固めるのも大事だし 養う者が増えれば
領地も広げる必要がありました。 

ですので そっち方面から 突き上げを
食らう形で 謀叛のような小競り合いを 
ちょろちょろ起こしていたんですね。

どうしても隣の芝生は青く見えるわけで 
手が出ちゃったんでしょうかねえ。

そんなちょっと頼りない基盤のまま 
息子の頼家さんが 2代将軍を
引き継ぐことになったのです。

頼家さんだって立派に頼朝さんと
政子さんの息子でしたし 

とても若かったけれど 彼なりに
がんばろうとしました。

私は 後に「執権」として
政子さんとか実家の北条一族が
強い力を持ちましたので

頼家さんの時からだったような
気がしていましたが 違ったんですね。

2代将軍の頼家さんの外戚として
力があったのは 比企という一族で 

どうやら 政子さんとご実家の方は 
これが面白くなかったみたいなのです。

先に仕掛けたのは
比企一族の方だったんですけども 

18歳の将軍さんは たった3ヶ月で権力を
後ろの人たちに分捕られた上 あろうことか
伊豆国へ流されてしまうんですね。 

で さらに気の毒なことに政子お母さんてば
彼を助けないんですよ、

自分の本当の息子なのに。\(◎o◎)/!

まあこの子が嫁の一族の言いなりになって 
お母さんやご実家に対して仕掛けたけど

返り討ちにあっちまったと言えば 
そうなんですけども。

で、これをきっかけに北条一族が ずいんと
表舞台に出てくるようになるのです。

実朝さんを襲った公暁さんは 
この頼家さんの息子なんですね。

だから実の叔父でもあるし
養子縁組をしていたので 

自分の親でもあるはずなのに 
どういうわけか実朝さんのことを
「親の仇~っ!!」と言って
襲っているんですね。

何でそうなるんだろう? 

実朝さんが3代将軍を継がされたのは
たった12歳の時だよ?

政子お母さんは 2代将軍頼家さんが
「病気で死んじゃった」ので 弟くんに

3代目を継がせたいんだけど~って
朝廷に申し出ているんだよね。

で、急きょ元服して名前を実朝さんに改めたし 
無官ではだめなのでとんとんと
都合で官位を頂いた形になっているんです。

歌人としても名前を残されるほどでしたし 
朝廷受けがよかったのは間違いなさそうですが

どこをどうすれば 実朝さんが「親の仇」に
なるんだか さっぱり分かりません。

頼家さんを亡き者にしたのは
北条さんちの方ですけどねえ?

それに実朝さんとこの公暁さんだって 
8歳しか違わないじゃないですか。

「誰か」にあることないことを
吹き込まれたとしても 

出家している身でありながら刃傷を働くとか 
何がそんなことをさせたのでしょうねえ。

ひょっとして亡きお父さんの跡目を継ぐのは 
僕だったはずだろう?ってことですかね。
 

 

謎に満ちた暗殺事件

 
頼家さんにしろ 実朝さんにしろ 実際に
政治を動かしていたのは 政子お母さんとか
ご実家の方でしたからねえ…(°‐°) 

将軍職といってもお飾りみたいなもんで…。

あちらこちらで謀叛やらも起きましたから 
武力も必要でしたのでね。

そんな環境でコトを荒立てても 
上手く行くとは到底思えないのに。

ただ実朝さんは暗殺される少し前くらいから 
宋へ行きたいと本気で思っていたみたいで

舟まで作らせているし
(浮かばなくて失敗だったみたいだけど)

武家の棟梁というよりは 明らかに文系の人 
文化人だったんですよね。

暗殺の実行日だって ものすごい
雪が降った後だったみたいだし 
もう薄暗かったかも…。

儀式が終わって 退出しようとしていた
ところだったそうですね。

しかも警護の者とか 
みんな鳥居の外に控えていて 
武装している人は誰も傍にいなかった…
そんなタイミングを狙ったようです。

で、「親の仇~っ!」で 
いきなり切りつけたみたいですね。

そのまま首を持って
逃走したとされていますが 

実は すぐに追手が差し向けられて
その日のうちに 公暁さんも
誅殺されているのです。

それなのに実朝さんの首は
行方不明なのだそうで 
いったいどうなってんの?

こうして源氏の血を引く者が
誰もいなくなってしまいました。

そうなるとこの実朝さん暗殺事件は 
源氏の血を絶やそうと企んだ者がいたように
思えてくるのですが 考えすぎでしょうか?

身内で争って若い命を散らしてしまい 
おかげで得をしたのは誰かと考えると 
まあ…だいたいあの辺りなんですけれども…。

返す返すも 頼朝さんがもう少し
長生きしてくれていたらなあと思います。

向上心が強いのは悪いことではありませんが 
この時代はまずは名乗りを上げ

主導権争いに参加することから 
始めなければならない頃でしたので 
多くを望みますまい。

自分たちの立場が確固たるものに
ならないうちは 政にまで
気が回らないものです。

公家のみなさんも 武の下での政 
どこまでやれるかやってみれば
いいんでないのと思っていたでしょうから。

それでも武士の台頭が
時代の趨勢だということは 
誰もが理解していたと思います。

源氏だけでは短かったけれど 
一応武士が勝ち取っていることだし 

その意味でも立派に意義があったんだよね、
1192(いいくに)できたか鎌倉幕府?
 
お読みいただきまして ありがとうございました。
 

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