「建国記念の日」によせて Ⅰ

建国記念の日

 

今日 2月11日は「建国記念の日」です。

カレンダーによっては「建国記念日」と
なっているものもあります。

どっちなの?とむりに決める必要はないかなと、
個人的には思っています。

なにしろ日本は国号の読み(発音)を
「にほん」なのか「にっぽん」なのか
どちらかに定めるような無粋なことはやらない
ゆるやかな国なんですから。

とても日本らしくていいと思います。

え?外国人が混乱するって?
そんなもん 必要な人にだけ
きちんと覚えてもらえばいいことです。

そもそも日本のことは 日本の問題なので
外国人が とやかくいう資格はありません。

日本人からこうだと聞いたのなら
その通りに覚えておけばいいのです。
 

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大きなテーマで 取っ掛かりが見えにくい

さて世の中には様々な考えがありますので
今日を祝日とするのをよしと
しない方々もおられるようですな。

ですがこの「建国記念の日」は
日本が戦争に負けたため

GHQが一度は禁止したものの
復活を希望する意見が多かったので
完璧に日本人の意思によって
戻ってきた祝日なのです。

その意味でも本当に心から大きな声で
お祝いしたい日です。

祝日にしたくないとお考えなら
構いません、仕事しててください。

建国がいつだったのか定かでないほど
歴史が 長いのが日本です。

長い間文字を持たずにいたので
記録がないことがネックなのですが
縄文時代から連綿と続いてきたで
あろうことは 想像に難くありません。

なにしろ海で守られていて
容易に近づくことができませんでしたし
小さな内乱などはあったと想像できますが

外から入れないということは
中から外へも逃げて行けない
ということでもあります。

ある意味で絶海の地といえる
この日本列島に 人が住み着いたのも

恐らくは膨大な時間をかけて 少しずつ
増えて行ったのではないでしょうか。

 

国という概念から入ってみましょう

国という概念も後世の考え方ですが
日本と諸外国ではかなり大きな違いがあります。

私たち日本人は海が国境というイメージですが
陸続きの大陸国家では「都市国家」という
形態がほとんどを占めます。

王や権力者が城壁を作り その中だけが国であり
それ以外の地は無法地帯でした。

人間は居たかもしれませんが
王や権力者の秩序の外だったのです。

場所によっては 言葉も風俗も
全く違う異民族が 暮らしている
こともあったのではと…。

国境線は揺らがないけど 広げるには
大規模な土木工事が必要だったことでしょう。

何所へでも歩いて行けるので
国境に対する気合が違いますね。

よそ者の侵入も防げますが
自国民の脱走も許さなかったと思います。

いずれにしても異民族と直に接して
いなかったことは 日本人の人間に対する
考え方に たいへん大きな影響を
与えたことは 否定できません。

異文化と渡り合うのにはやはり
それなりの技が必要だと思いますね。

うへえ何てヤツだと思われるかもしれませんが
私は「言葉が通じない」のは
「思うことが通じないこと」だと思っています。

どういうことかというと 日本語を
完璧に外国語に訳することができないから。

先日 言いましたよね?
書き文字として便利だった漢字だけれど
使っているうちに面倒になったのでは?と。

公式な文書なら「○○は□□だった」で
済むかもしれませんが

日記や手紙のようなものだと
そこに入り込む感情などを上手いこと
表現しきれなくなるのですよ。

で、漢字をばらしたり 崩したりして
音を表す文字を作っちまいましたとさ。

もともとが外国語なんですから
思うようにいかないのは当然だし
逆もまた然りです。

言葉が通じたって けんかはあるし犯罪も
果ては 殺人だって起こるのが人の世。

まして汗をかきながら必死に話したって
外国語では言い切れない部分の方が
どうしても多くなります。
(私の英語が下手過ぎるのは内緒。)

ですので「言葉が通じない」=「発想が違う」
ということを前提に ではどうしたらいいかと
考えを切り替えて行く方が建設的ですね。

あれ?「建国記念の日」の記事だった
はずなんだけど…まあいっか。

 

よく似た近しいものが寄り集まって…

建国なんて壮大なことがテーマだから
記事が無駄に長くなるのかな。

いえいえテーマのせいではなく
文章をまとめる力がないからに他なりません。

やはり国という概念を語る時は
どうしてもその構成員である
人々の使う言語が問題になってくるので
取り上げざるを得ないわけです。

言葉とは意思を伝える道具ですので
同じ言語を共有しているということは
言葉という意味での発想が共通しており

生活様式や生活圏も近しいでしょうから
一つの大きな塊と認識されるのは
これまた当然のことですね。

そうなる要因のひとつが
先にも書きました「都市国家」の出現です。

城壁で囲まれちゃったんですからね
結びつきも強くなるわけです。

その割には欧州などは 言葉の
混ざり合いがわりと大きいんですね。

これは否応なく人々の交流が
あったということだろうと思います。

戦争によって捕虜や奴隷として
連れてこられた他国の人々もいたようなので
そこらあたりでよその言葉や風習が
入って来ていたのでしょうかねえ。

あまりいい交流とは思えないですけど。

 

他所のことはこのくらいにして

日本に目を転じれば 国家としての
黎明期にこそ 海の向こうの
大国の影響を受けましたけれど
(お手本・参考にしたという方が近いかもです。)

海が守ってくれましたので
必要以上の干渉を受けずに済みました。

そしてその頃 海を渡る力を持っていたような
日本の西側にあった国は 恐らく
お土産をたくさん持って行ったんでしょうね。

だから 同格を意味する「金印」を
もらうことができたのです。

他の国々も 中国に興った国へ
ごあいさつに行っていた記録があるそうですが
「銀印」または「銅印(泥印)」しか
もらえなかったようです。

日本の国々としては 離れていたし 影響が
なかったので「金印」をもらったけれど
あまり真剣にお付き合いしようとは
思っていなかったようですよ。

なぜならその「金印」が発見されたのは
畑の中 つまりそこらへんに
捨てられていたということで もらっても
ありがたくはなかったんでしょうね。

そして日本では小さな国が
いくつかまとまる傾向を見せ始めます。

黎明期の日本においても 恐らくは
武力による統合が行われたことでしょう。

そして大きなまとまりができ
次第に国としての様相を呈してくるのです。

やがてある程度の規模になると
王の中の王 大君(おおきみ)などという
支配的な立場の者が現れるようになります。

ここまで妄想を広げましたが
長くなりましたので明日に引っ張ります。

 
お読みいただきまして ありがとうございました。

 

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