七十二候 霞始たなびく(かすみはじめてたなびく)

霞み たなびく

 

今日23日ごろは 七十二候の霞始たなびく
(かすみはじめてたなびく)に当たります。

文字コードの都合でひらがなにしましたが
「たなびく」はとても難しい漢字です。

なぜ23日ごろなのかというと
二十四節気の「雨水」に当たる日が
その年によって1日ほど
ずれることがあるためです。

始めがずれるとそこを起点とする後の候が
当然ずれてしまいますので。

そんな「ゆらぎ」も自然のなせるワザ。

途轍もなく大きな「ゆらぎ」の中に
私たちは居るのです。

カレンダーの日付は同じでも 気温も
気圧配置も 風向きも 毎年毎日
違っているので季節の移ろいを
「こうでなくては…」と決めつけるのは
ちょっと乱暴過ぎる気がします。
 

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候が伝え 教えてくれる移ろい

むしろ気が付いたときは すでに過ぎていたり
全く見つけられずにいたりする

ほんのちょっとしたことを候に取り上げて
それとなく教えてくれる 暦の書き方は
趣があっていいなあと思います。

季節の移ろいは 意識して見るようにしていないと
簡単に見落とすほど 密やかで
本当にかすかなものだからです。

もっとも簡単には見つけられないような
事柄も ありますけれど。

ただとても難しい漢字などが使われており
解説なしには全然読めないし
意味もよく分からないものですから
あれこれ調べて回ったり。

その調べ回ることも また新しい発見に
繋がったりして意味のあることなのです。

面倒がらずに 思い立った時すぐに
やってみる習慣をつけるのも
大切なことかなと思っています。

私は田舎住まいですし 実際に今
この時期は…マジで冬ですので
春の訪れを感じさせるものは全くないです。

それどころか冬が我が物顔でどっかりと
居座っており 退く気配もありません。

でも霞という言葉や響きは
やはり春を感じさせてくれます。

霧でも靄(もや)でもない霞というのは
春のイメージなんですね。

暖かい空気と冷たい空気が出会って
実際には 霧が発生します。

同じように白くかかる靄を昔の人は
秋から冬のを霧 春のを霞と表現しました。

 

密やかな季節の移ろいを捉え 記録する

あくまでも私の感覚ですが 霧の場合は
冷たい空気が少しだけ多くてできたもの

霞は暖かい空気の方が多くて
できたもの そんな感じがします。

発生する時の条件には 違いなど
ないのかもしれませんが それを見る
人間の方にそんな違いを感じさせるのが
季節というものなのかなと。

言葉の豊かさとそこに宿る空気感に
つくづく日本人でよかったと感じます。

そしてもう一つ豊かさという意味では
こうした七十二候のような細かな観察が
必要な事柄というのは やはり生活に
根差したことであるからこそ定着し 長く
愛されてきているのだろうなということ。

たくさんの人が望む情報を共有し
過度を削ぎ不足を補う形で
培われてきたものという感じがするのです。

長い冬がようやく終わろうとしている頃
山の稜線の色が少しだけ赤っぽくなり
ふもとでは夕暮れの霞の中に
里の明かりがほのかに揺れる…。

遠くに見えていた山がぼんやり霞んで
かすかに山の色が温かみを増す。

気が付くと風がずいぶん優しくなり
どこからともなく花の香りを運んでくる…。

見え隠れする春の情景です。

 

移り行く時が 最も風情を増す

私の住む田舎では 霞という言葉には
こんなイメージが膨らみます。

霧によく似た白い霞だけでなく 春特有の
遠くの景色がぼんやりかすむのも立派な霞。

今のこの時期は まだ空がわずかに
かすむことがあるかな…くらいでしょうか。

冬の冴え冴えとした空の色から 少しだけ
硬さというか冷たさがとれた感じの青い色。

雲の形も鋭いすじ雲から ふわっと
丸い雲が見えるようになったら 空の色も
ふわっとやわらかい青になる…

いつも空を見上げているので
何となくわかります。

雲の形が変わるのは 風の強さと温度が
関係しているのかなと思います。

高い空は乾いた冷たい風の通り道。

でも少し低い空には 少しだけ湿り気のある
少しだけ暖かい風が優しく吹いているのかなあ…と。

湿り気のある少し暖かい風だから
丸い雲もできるし 地上から見上げた時
空の色が少し柔らかく見えるのでしょう。

実際に私の住む地域で
こうした光景が見られるのは
あとふた月ほど先のことになりますけれど。

 
お読みいただきまして ありがとうございました。

 

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