9月 2日七十二候 禾乃登(こくものすなわちみのる)

禾乃登(こくものすなわちみのる) 暦・季節

 
禾乃登(こくものすなわちみのる)
 
今日は七十二候の禾乃登
(こくものすなわちみのる)に当たります。

ちょっと見慣れない禾←この字は一字だけで
こくものと読んで そのものずばり稲のことです。

いよいよ収穫の時期を迎えたということでしょうか?

でもまだ9月になったばかりですよね。
実るという字を使っていません。

この頃の稲はまだ瑞々しい緑で元気いっぱいです。

私たちがお米と呼ぶ実の部分がようやく
お米らしくなるころなのです。

旧盆が明けるころから 青い稲穂が徐々に
少しずつ成熟をはじめます。

若い稲穂はお米になる部分が白い液体状ですが
この時期に個体へと変化を始めるのです。
 

スポンサードリンク

 

収穫のために最も重要な時期

 
実りに直結する大切な時期ですね。

見た目では穂が一斉に出揃って形を整え
見てはっきりとわかるようになりますので

感想として「おお今年も実ったな」と
言えるころかと思います。

本当の実りではないですけどね。
登という字を当てたことについては
何となくですが わかる気がします。

というのも この頃の稲の穂というのは
まだ真っ直ぐなんですね。

ぴーんと伸びているというか
葉っぱが守るように包んでいるし
液体状なので まだ穂が軽いんです。

これはこれでまた独特の風情があると
私は思うのですが ぴんと真っ直ぐ上に
向かうようにみえる若い穂に対して
「登」という字を当てたのかなあと。

そこに植えられている稲たちは みんな
真っ直ぐ上に向かって穂を揃えていますから。

もしかすると今の稲は品種改良を繰り返して
収穫量を増やそうと努力してきた結果なので

昔の稲穂よりも 長く立派になっているかも
しれないので 単純に私の妄想なんですが。

それでも同じものが揃っている姿には
わくわく感というか ある種の期待のような
感情が湧いてきます。あ…あれ私だけ?

まだ少し夏の残像を引きながら広がる
田んぼの美しい緑の絨毯は 葉っぱの間に

真っ直ぐ伸びる「未来」を宿して
光と風の中にそよいでいます。

その風には確実に秋の色が紛れていて
本格的な実りを促すのです。

毎日外で稲と同じように 光と風を浴びていますので
移ろいゆく季節を肌で感じていたかもしれません。

今よりも自然がずっと身近だったと思うので。
 
 

この七十二候 禾乃登には喜びが隠れてる

 
目に見える形になれば うれしくなるのは
何時の時代でも 自然な人情だと思います。

そうでなくても野良仕事は 重労働だし
植物を実りにまで導くにはとても多くの
手がかかります。

七十二候にあげるようになった頃なら
今よりもずっと大変な苦労をして
この時期を迎えただろうと思います。

稲の管理というのは ほぼ水の管理を指しますが
それは毎日決まった時間に田んぼにある
水の量をコントロールすることです。

毎日毎日田んぼの様子を見に行くことなのです。

だから穂を出してきた稲を見たお百姓さんの顔が
にまっと自然に緩んでしまうだろうことは
容易に想像ができるのです。

今年もようやくこの時期を迎えたと…。

禾乃登(こくものすなわちみのる)には
そんな努力をした人だけが味わえる

密やかな喜びが込められているような
気がしてなりません。

ぜひとも候に入れたかったんじゃないかな
そうに違いないと想像しています。

だってもう少しで 待ちに待った実りの時を
迎えるのですから心情として 指折り数えるような
待ち遠しい思いなのではないかしら。

少しずつ天候が変わり易くなったり
時として台風が襲ったり
安心できる要素はあまりないんですけども

根気よく水の管理をして 稲に最後の
もうひと踏ん張りを後押しする時期です。

すべての命の源 太陽も日々 日足が短くなります。

草木である稲もそんな日の長さを感じているはずで
きっと追い立てられるように 実入りを
急ぐのではないでしょうか。

人間も含め すべてが自然のサイクルの中に
収まっているんですね。

七十二候って巡りゆく季節を切り取った
共通認識みたいなものと解釈しています。

時間をかけて洗練されたというか
収斂してきて その言葉になったものかなと。

数文字の言葉だけれど そこに詰まった
昔の人々の思いを自分がその立場だったら

そうかもしれないと妄想の翼を広げるのが
また格別に楽しいのです。
 
お読みいただきまして ありがとうございました。
 

スポンサードリンク

コメント

タイトルとURLをコピーしました