「雑節」の二百二十日(にひゃくはつか)を迎えて

二百二十日 暦・季節

 
二百二十日
 
9月 1日の「雑節」の「二百十日」から
さらに10日が過ぎました。

今日は日本独自の暦でやはり「雑節」の
「二百二十日」に当たります。

「立春」から数えてちょうど
220日目ということですね。

「雑節」が暦に取り入れられたのが
正確にいつからなのかわかりませんけれども

国民の大多数が農業をやってきた日本では
お米の出来・不出来は大変重要なことでした。

江戸のころでは通貨と同じような
働きがあったという話もききました。

そうです たくさんあった「国」の力を
「石高(こくだか)」という単位にして
お米がどれだけ取れるかで
表したくらいですからねえ。

とてもユニークな単位を作ったもんです。

春と秋は短い周期で天気が変わることが多く
収穫を前に気がもめたと思います。
 

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「二百二十日」付近の災難を伝承

 
その大切なお米の収穫を目前にした
今頃の季節はというと厄介者の
台風のシーズンでもあったと思います。

暑い夏から少しずつ気温が下がり始める
季節の変わり目でもあるので
「秋の長雨」になったりして
天候が安定しない時期です。

田んぼを維持する灌漑施設は
繰り返す自然災害などで
破壊されるたびに改修が行われ
ずっと使われ続けてきたと思います。

時には新しく田を開墾したり
治水のために川の向きを変えたり
用水路を作ったりしたかも…。

「二百二十日」の今頃に多かった台風も
当時の人々の努力の結晶をあっけなく
破壊して行ったのでしょう。

台風が去った後にしたって 片づけや
補修をするにも 人的被害がないことが
大前提ですからね。

恐らく自然の猛威の前には
昔も今も変わりはないでしょう。

そういう困ったことが ほぼ毎年
繰り返されたので今頃を記憶しようとしたのが
「二百十日」なのかなあと。

仮に天気予報ができても 人々に
伝える術がないですもんね。

平安の昔から 星を見たり 気象を観測し
記録することはやっていたとは思います。

記録する文字があったのか
なかったのか はっきりしないので
漢字を輸入する以前のことは
想像でしかないのですが

それでもたぶん朝廷の中には そういう役職が
あったのではないかと思います。

だって大和朝廷が大小の国々をまとめる
ずっと以前から稲作をしていたはずなので。

何度も言いますが 農業には
時期を把握することが絶対に必要です。

季節の巡りを理解している者 あるいは
そういう情報を持っている者こそが

指導的な立場に立てたはずで 必然的に
そういう人の元に人々が集まってきて
いたのではないかと思います。

何らかの形で記録していたと思うんだけどねえ…。

縄文時代から古墳時代くらいまで
相当に長い時間なんだけど…。

本当に文字を持っていなかったのかしら?

そんな状態でどうやって
共同体を維持していたんだろう?

比較的大きな集落を形成していたらしいのに…。

何しろ1年や2年じゃなくて 万年の単位
だったはずなんですが…ねえ…。
記憶力がよかったのかなあ。

自分の記憶レベルでものを言うなと
お叱りを受けそうですが…。(汗)
 
 

「二百二十日」を暦に入れた知恵

 
はるか昔の妄想はさておき「二百二十日」は
江戸時代に加わったものでしょう。

暦が庶民にも行き渡らないと 独自の
気象設定なんてできませんからね。

せっかく暑い夏の間 草退治をして 大切に
稲を管理してきたのに 収穫を目の前にして
台風や長雨にやられてしまっては涙も出ません。

何時の時代も 豊かな実り
収穫はみんなの願いでした。

自然災害にやられっぱなしになることなく
記憶を伝え季節の変わり目の変化を
先に読み取り 対策するそういう方向に
進んできたと言えるのかな。

とにもかくにも農業は 天候次第なので
気象を読み 季節を把握することは
何にも勝る技術だったのかも…。

それがずっと今に受け継がれて
カレンダーにあるのです。

気象なので若干のずれはあるものの
季節の移ろいを感じさせてくれます。

もちろん台風は今でも十分脅威ですので
注意が必要ですけど。

そう… 恐らくはその注意喚起の意味もこめて
暦に入れたのではないでしょうかねえ。

収穫時期の災難に備えることも
考えたと思います。

日本では収穫されたお米を全て食べてしまったり
年貢として収めてしまったりといったことは
しなかったのではないかなと思います。

よく時代劇などでは 根こそぎ
年貢米にされちゃったような
表現や演出がされてますけども。

詳しくないので想像ですが 天候不順や
台風などの災害に見舞われた時のための
「予備」がどこかに備蓄されていたのでは…?

あるいは豪商と呼ばれる人たちが売り物だけど
提供するような取り決めが
なされていたのかもしれませんね。

少なくとも翌年の種籾(たねもみ)は
取って置かないと困りますから。

年貢やら取り置き分やらはたぶんシステムとして
組み込まれていたのではないかなあ…と思います。

そういう知恵が生まれるのも 暦を
しっかり理解している必要があるでしょう。

お百姓さんたちの識字率はあまり高くは
なかったかもしれませんが

代表者のような立場になれば
確実に識字はしていたでしょうから。

そう、たくさんの農地を持っている
地主さんとかは 苗字や帯刀を
許されたりしていましたので。

あれれ「二百二十日」からだいぶ
離れてしまいましたが

江戸が平和だったおかげでこういう文化が
根付いたとも言えるでしょう。
 
お読みいただきまして ありがとうございました。
 

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