明治になる直前に竣工された 函館「五稜郭」

五稜郭竣工 障子窓

 
五稜郭竣工
 
今日は1864年に江戸幕府が作ろうとした
要塞兼奉行所の函館の「五稜郭」が
竣工された日だそうです。

今では整備された公園が
とてもきれいですね。

人工衛星からも はっきり
くっきり星形が確認できます。

そうここは上から見た方がよくわかるので 
展望台を兼ねたタワーが 
すぐ近くにそびえていますね。とても親切。

五角形というか星形の
斬新なデザインですけど 

角の出っ張ったところは 攻めにくく
守り易い形なんだそうですね。

見かけだけではなく 出城というか
要塞としても優れたデザインなのです。
 

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おされなだけではない形

 
もともと欧州で考案された要塞の
建築法だったのですが

戦争に大砲という
重火器が登場してからは 
その効果を発揮できなくなったそうです。

欧州には星形が幾重にも重なった形の
要塞を見ることができます。

もちろんジオラマではないので 
衛星または航空写真ですけども。

平らな場所にあるので 山や丘といった
自然の要害を利用できなかったので
形に工夫をこらす必要があったのかな。

土塁と言いますから土を突き固めて
形を作ったんですね。

江戸時代も含めて以前は
どの時代であっても 

築城などすべて人の手で
行われたことでしたが

「五稜郭」の工事もたいへんな
大工事だったと想像します。

資料には最盛期で5~6千人の
人夫が働いていたとあるそうです。

これだけの人がいれば 
ちょっとした都会ができちゃいますね。

たぶんものすごくにぎやかな街に
なっていたことでしょう。

なんでも松前藩や津軽藩 南部藩 
仙台藩とかの陣屋はすでに
作られてあったので

幕府の仕事が
遅くなるとみっともないから
どえらくがんばったみたいで 
なんと2年で完成させちゃいました。

とんでもないスピードで完成させたのですが 
残念ながらその江戸幕府も 
そのまた2年後には(明治維新で)
無くなっちゃう運命でした。

急かして作らせたのはもちろん
外圧の危機感もあったでしょうけれど

どうしても完成を見届けたかったのかなあ…
なんてふと思ったり。

なんだか少しだけ気の毒な
感じがしないでもない…。

それは結果を知ってる者の単なる
センチメンタリズムかもしれないですが。
 
 

できて間もないので まだ新しかったんだけど

 
その明治維新の年に撮られた
函館奉行所の写真が残っているのですね。

偶然か必然だったのか 
写真に撮られてあって良かったですよ。
本当に記録魔ですね 日本人は。(笑)

そしてこの写真が撮られて少し経ってから 
ここは戦闘に巻き込まれます。

建物の屋根にある鐘楼が
砲撃の的になるからと 
急いで取り外されたとか。

さらっと書きましたけども 
取り外せるってすごいことですよね。(笑)

私は幕末から明治維新にかけての歴史に疎いので 
よく知らなかったのですが

江戸城無血開城の後 旧幕府軍は
陸上を北へと向かいました。

実は海上から北海道を目指した人が
いたそうで この人は失業した幕臣たちを

蝦夷地に連れて行って 開拓と北方防衛に
あたらせようと考えたのでした。

なるほど失業対策と防衛対策が
一度に解決する方法だったんですね。

ずっと不思議だったんです、どうして函館が
新政府軍と旧幕府軍の戦場に
なったんだろうって… 
そういうことだったんですね。

確かに無血開城には成功し 江戸の町を
戦火に巻き込むことは避けられました。

ですが 大量の失業者を出したことは
間違いありませんからね。

この人たちはとても不安で途方に
暮れたことでしょう。

そういう社会不安をきちんと払拭するのも
新政府の役割だったんじゃないの?

でもやったことっていったら 
とんでもなく乱暴なやり方で
数を減らしたよね。

日本人同士で相打ちするなんて 
白人どもがどんなに
ほくそ笑んでいたことか…。

…なんて想像するとね 明治維新て
あのタイミングでやらかして
本当に良かったの?と
思えたりするんだけど

まあ物事は立場によって見え方が
変わるものですからねえ。
 
 

せっかく新築したのに…ねえ

 
1869年 5月「五稜郭」は
戦闘に巻き込まれました。

前年の冬のうちに立てこもっていた
旧幕府軍があちこち補強を
しておいたそうですが 

冬の北海道で補強工事とか 
想像しただけで 凍りついちゃうよお…。

先にも書きましたが 「五稜郭」は構造上
砲弾には弱いのでね、新政府軍の軍艦から
砲弾が撃ち込まれるし 

たくさんの大砲に囲まれて
集中砲火を浴びてしまうのです。

こうなってはもう降参するしか
ありませんでした。

過ぎたことは変えられませんが 
戦わずに済ませる方法は
なかったんでしょうかね。

様々な思惑が交錯するものなので 
一概には言えませんけども…。

新政府が示した徳川家への
処遇を見ても 幕臣たちへの
配慮があったようには思えないので

失業に追い込まれた人たちも
必死だったのでしょう。

ただ考えようによっては 全国を巻き込む
大混乱にはならずに済んだ…とも言えます。 

日本人は長い間太平の世を過ごしてきたので 
大きな不満や不安を抱える者が 
さほど多くなく戦闘の拡大には
つながらなかったのかなと。

どちらかというと このままでは日本が
アブナイという危機感を持った
一部の人たちが起こした 
大騒ぎだったという風にも言えると思います。

日本では 偉い人たちは自分たち
庶民のために政をしてくれるという 

ある種の信頼のようなものが 
ずっと庶民の中にあったんだと思うのですね。

なので 今日から新しい日本だからねと
言われると あ…そうなんですかって 
従っちゃうというか 

ほとんど逆らうことなく
受け入れてしまうのです。

庶民の従順さに白人たちは驚いたでしょうね。

いずれにしても「五稜郭」は 旧幕府軍の
文字通り最後の砦となったわけです。

そんな兵どもが夢のあとも 今はちゃんと
修復復元されてきれいになっています。

みなさんの憩いの場所であるとともに 
観光客も押し寄せてるでしょうね。

以前も書いたことがあるけど北海道へは
行く機会を作らなくっちゃ。
 
お読みいただきまして ありがとうございました。
 

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