今日は徳川斉昭(なりあき)公のお誕生日

 
水戸偕楽園
 
1800年 4月 4日は
水戸藩9代藩主徳川斉昭公の誕生日です。

生れた時点に於いては 
当時のことですから 

他に兄弟がわんさかいましたし
将来藩主になると決まって
いたわけではありませんでした。

父君は7代藩主治紀さんで
実際に斉昭さんは父君の三男坊でした。

で、実に30歳になるまで
他家に養子に入るわけでもなく

いわゆる「部屋住み」を
していたのだそうです。

でも家庭教師(?)の会沢正志斎に
水戸学を学び 大変優秀だったとか。

2代藩主の黄門さまの意志を
継いだおかげで この頃の水戸藩には

水戸学派と呼ばれる学者がごろごろいて
学問の一大拠点でしたからね。
 

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時代が変わろうとしていた時に現れたお殿様

 
その中でも藩主の子供たちの
養育を任されていたということは

この会沢さんも 生え抜きの
学者さんだったのでしょう。

さて斉昭さん、お勉強はよくできたのに
お兄さん(嫡男)の「控え」みたいな扱いで 
ちょっと気の毒な感じですね。

ところがたった3歳しか年の違わない兄君の
8代藩主が 後継ぎを決めないまま
32歳の若さで亡くなってしまいます。

で、藩内が揉めるんですよ、

まなじ頭の切れる人たちが多かったので
自分たち押しの若君を藩主にしようと
がんばっちゃうんですねえ。

門閥の人たちは11代将軍の
20番目の息子を養子にしようと画策。

これに対して 学者や身分の
あまり高くない者たちは
斉昭さんを押していました。

ですが結局 お兄さんの遺言状が
見つかったらしくて わりとあっさり

斉昭さんが9代藩主
ということに決着したのでした。

藩主になった斉昭さんは
藩政の改革に力を入れ

身分を問わず能力で
人を採用するなど封建制度にあって 
革新的な取り組みをいくつも行いました。

自分を支持しなかった門閥たちへの
意趣返しもあったかもしれませんね。 

特に教育には力を入れたみたいで 
有名な弘道館は斉昭さんが作りました。

名称こそ「追鳥狩」ですが
立派に大規模な軍事訓練とかをやらかしたり

大船建造を幕府に提言するとか 幕末の
息吹を感じさせることを次々に行いました。

広く学問を修め 君主の在り方を
近くで見聞していたので 

自分が施政する側に立った時の
あれこれをあらかじめ考えて
あったのだろうなあと。

また藩主になってほどなく 
有栖川宮家から正室を迎えています。

当時としてはたいへん遅いといえる
正式な結婚でした。 

でもですね すでに側室もいましたし
姫も3人ほど生まれていました。

この宮家の姫君吉子(よしこ)さんこそ
最後の将軍慶喜さんのご生母です。

斉昭さんは正室と側室合わせて
10人もの「奥さま」がいましたので
生涯で37人もの子供を設けたそうで。
\(◎o◎)/!

て…天下の御三家水戸のお殿様ですので 
そ…そのくらいは…ねえ。

斉昭さんは今でいう
セクハラおやじだったみたいなのですが
まあ…お盛んだったということで。

ご気性としては激しい方で 
諡(おくりな)には「烈公」ともあるように

そのくらいでなければ 名家の
かじ取りは難しかったのではないかなと。

一方で藩政に於いてお寺から
梵鐘や仏像など金属でできた物を

大砲の材料として没収したり 
人別帳など本来お寺が担ってきた役割を

神社にさせるなど その後の廃仏毀釈の
ようなこともやっています。

何でも藩政の上層たちと 改革を推進する
中・下級の者たちとの派閥抗争が

激化したのを収め 藩をまとめるための
方策だったみたいですけど。

新しいことを始めるのは いろいろな
軋轢を生むものですからねえ。

ところがこうした動きが
幕府に目をつけられちまって 

家督を嫡男に譲り 斉昭さんには
強制蟄居と謹慎処分を
命じられてしまうんですよ。

ちょっと目立ち過ぎ 
やり過ぎだったのでしょうかねえ?

まあ普通ならお取り潰しや 
家名断絶になっていたかもですが

さすがに水戸家をぶっ潰すわけに
いかなかったのでしょうね。

それでも斉昭さんを慕う者たちの
復権運動が功を奏して ほどなく
謹慎が解かれ藩政に返り咲いています。
 
 

さすがは慶喜さんの父君という感じ

 
そしていよいよ藩政ばかりでなく
幕政の方にもちょこちょこと……。

黒船来航という天下を揺るがす大事件に際し 
海防参与として呼ばれた斉昭さん。

水戸学を収めていますから 
強硬な攘夷論を主張しまして 

開国派の井伊直弼さんらと
対立してしまいます。

また諸藩の有力者たちがひしめく中で 
自分の息子慶喜さんを将軍に据えるべく

一橋派を形成し これまた
井伊直弼さんらと対立を深めます。

んで、斉昭さんはこの政争には
負けてしまうのですね。

勝った井伊さんが大老になって 
日米修好通商条約を勝手に調印しちゃうし
14代将軍に家茂さんを据えたのです。

ですが さすがに御三家の水戸さん
だったりするので 簡単には引き下がらず 

慶喜さんと親子で江戸城に押しかけてって 
井伊さんを問い詰めたりしたもんだから 

江戸の水戸屋敷での謹慎を
命じられてしまいます。

何か出会った時から対立軸に
あったような斉昭さんと井伊直弼さんですが

とうとう最後までその立場から
変わることはありませんでしたね。

後世の言う「安政の大獄」は
この直後に引き起こされた弾圧…というか
個人的には処罰に近い感じがします。

時の天皇から直接水戸家へ密勅が
下賜されたことが幕府にばれちゃったのね。

外圧に翻弄されて権威もガタ落ちの
幕府としては公けにはできないので

水戸藩の陰謀ということにして
藩の重役たちやらに責任を取らせたのです。

斉昭さんも永蟄居を命じられて 事実上
完全に政治の舞台から追い落とされました。

気性としては斉昭さんもぐぬぬ…と
思っていたかもですが 若ぇもんは

もっと過激でして これが次に起きた
「桜田門外の変」に繋がるのです。

そう井伊直弼さんが水戸藩士らに
暗殺されてしまうのですね。

この事件は1860年の3月のことでしたが 
斉昭さんも同じ年の8月 満月を楽しんだ席で
お手洗いに立ち 倒れたと伝わっています。

どうやら心筋梗塞の発作が起きたようで 
彦根(井伊さんとこの)藩による

暗殺じゃないの…?という風説が
立つほどのタイミングだったみたい。

もう少し生きていたら慶喜さんが
将軍になるのを見られたのにねえ。

ともあれ 斉昭さんはこうして
激動の生涯を閉じたのです。

幕末という時代にあって 
名家に生まれ成るべくしてなったお殿様

そして新しい時代へとつながる
大切な偉人の一人だと思います。
 
お読みいただきまして ありがとうございました。
 

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