今日 8月31日は あの「カリギュラ」が生まれた日

カリギュラ生誕 ガラス窓

 
カリギュラ生誕
 
「カリギュラ」という名前を聞いて 
どう思われるでしょうか?

稀代の暴君「ネロ」のふたつ前の 
古代ローマ帝国皇帝なのですが

その「ネロ」と並び称される
困ったちゃんとして知られています。

「カリギュラ」というのは
「小さな軍靴」という意味だそうで
ちゃんとした名前はガイウスさんといいます。
(もう少し長い名前ですが… ^^;)

だから正しくはガイウス帝と書かないと
いけないんですけども…。

たぶん誰も知らない…と思われますので 
「カリギュラ」で通します。

この「カリギュラ」くんは
12年 8月31日に生まれています。
 

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若く美しいローマ皇帝の誕生

 
一応 血統的には たいへんに
由緒正しい生まれなので 

後に皇帝になった時も大勢の人に
お祝いしてもらえたのです。
(昔はそういう人、多かったっスけどね)

「カリギュラ」くんはゲルマニアへの
軍の遠征に お父さんにくっついて
2,3歳のころから
同行していたのだそうです。

戦場に幼児を連れて行くなんて…
どういう人たちだったのかしら…ねえ…。

その時ローマ兵士の装備を 
丸ごとミニチュアに作って
身に着けていたので 兵士たちは
とてもかわいがったんだそうです。

ちっこいローマ兵は
確かにかわいいと思います。
(ミニチュア好き)

7歳の時にも 今度はシリアへ
ついていきますが やっぱりアイドル~。

ところがこの戦いの後 
お父さんが急死してしまうのです。

政敵だったティベリウスという人が 
一服盛ったと言われていますが…。

「カリギュラ」くんの一家は 
ティベリウスが画策して お母さんと
お兄さん二人は追放され 残った姉妹と
軟禁状態に置かれたそうです。

実はこのティベリウスという人
「カリギュラ」くんから見ると
大叔父さんにあたるんですね。

当時ローマ帝国の中枢にいた いくつかの
家系が複雑に 姻戚関係を結んでいて
もお わけわかんない。(≧n≦)

で、どういう訳か ティベリウスは 
皇帝の座にはいたものの ほぼ隠遁生活に
入っちゃってて 軟禁状態とされていた
「カリギュラ」くんは 本当はとても
大切にされていたんだとか。

自分が皇帝の座につくことが
できたから満足したのかねえ?

で、最終的には「カリギュラ」くんは 
次期皇帝に指名されるのです。

「カリギュラ」くんが皇帝の座に
ついたのは24歳の時でした。

残っている胸像を見ると かなり美形な
感じがするのですが…。うふふ

他の皇帝たちはおっさんばっかですものねえ。

それもそのはず 悪名ばかり高いですが 
「カリギュラ」くんが帝位にいたのは
たった4年ほどの間に過ぎません。

ティベリウスが晩年 真面目に政務に
当たらなかったり ローマ市民の
楽しみの予算を削ったりして 
相当に不人気だったようです。 

また「カリギュラ」くんの
父君は 名将でもあったのに 

その一家を離散に追いやったことなど
人々は忘れていなくて かなり不評を
かっていたみたいです。(バレてたのね。)

若い「カリギュラ」くんの即位は 
ローマ市民に熱狂的に
迎えられたのだそうです。

即位して半年ほどは とても
よい皇帝だったのですが 

ほどなく下ネタ関係の醜聞が
聞かれるようになります。(∵)

歴史家によっては宮廷を売春宿にした
というような言い方をする人もいるとか。

そういう言われ様もひどいと思いますが… 
本当は何があったんでしょうねえ?

若いのでお盛んだったのは仕方ないとして 
政務まで放っぽりだしてやらかしてた…?

何か発作のようなものが起きる
「病」でも持っていたのでしょうか?

一般的によく知られていることとして 
下ネタ系で放蕩の限りを
尽くしたとされています。

結果 何かはわかりませんが 
結構大変な病気に倒れたそうで 
一説には生死を彷徨ったと。

でも本当はこの病から復帰した後の方が 
さらに困ったちゃんへと突き進んでいくのでした。

国庫は逼迫していたようですけれど 
公共事業のような感じで 大規模な建造物の
修復とか新築とかしています。

実際に「カリギュラ」くんが
作らせたわけではないのですが はるばる運ばせて
今の場所に鎮座しているものもあるのですよ。

バチカンのサン・ピエトロ大聖堂の
真ん前にある大きなオベリスク あれは
「カリギュラ」くんが運ばせて 
あの場所に設置したんですって。

その時代は競技場だったとかで 
その飾りにエジプトから持って来たんです。

私のミケちゃんたら そのまんま使ったんだわ。

たぶんてっぺんの十字架とかは 
後付けだと思いますけどね。

いろいろ言われているのですが 
実は信頼できる史料が少な過ぎて

本当に狂気に満ちた暴君だったのか 
定かではないのだそうです。

ただ最後の方の 自分を神と崇めさせようと
したとかは ちょっとアレですけど。

最終的には親衛隊に暗殺されてしまいます。

在位は4年、たった28年の生涯でした。
 
 

正しく伝わっているか疑問な その治世

 
恐らくは貴族や元老院と呼ばれた議会 
騎士など上流の人たちから 疎まれるような
ことがあったのではないでしょうか。
ローマ市民に熱狂的に迎えられたのに 
非難轟々の史料しかないということは
何らかの作為を感じますよねえ…
故意に廃棄されたとしか思えないなあ。
力のある人たち あるいは
皇帝のすぐ近くにいた者たちにとって 
何か面白くないことをやっちまって 
結果的に暗殺が成功しちゃったのかな…。
古代ローマ帝国のお偉いさんたちを
ずっと見てみると 帝政になる前から
気に入らない「ヤツ」は
マジで消していますからねえ…。
何も殺さなくったっていいでしょうに…
と思うのは 現代の感覚でしょうか。
権力の座から引きずり下ろすだけでは
満足しないんですよ この人たちは。
一般のローマ市民や兵士などは 
「カリギュラ」の暗殺を嘆いたそうなので
我れを神と崇めよとか言っちゃって 
神さまごっこが大好きだったけど
ローマ市民からは人気があった「カリギュラ」くん。
(美形だからきっと神さまごっこも
似合ったに違いない…ぷぷぷ…)
もしかすると このあたりが貴族とか
特権階級に何か不安材料をもたらして
それが暗殺に繋がったのかもしれませんね。 
当然 やらかした方は 自分たちの正当性を
喧伝するため 消した方を悪者にするから 
やれ稀代の暴君だの 性的倒錯者だのと
言いたい放題で 悪い伝承だけを
残したんでないかな…。
一級の史料がほとんどなく 悪名ばかりが
高いというのは何らかの意図があったと
見る方がいいのではないかしらん…。
本当はどんな治世だったのか
知りたいところですねえ。
 
お読みいただきまして ありがとうございました。
 

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