今日はハプスブルク家最後の皇子が生まれた日

オットー 生誕 ガラス窓

 
オットー 生誕
 
オットー・フォン・ハプスブルクと
通称された皇子さんは
本名フランツ・ヨーゼフさんで 

実は1912年の昨日11月20日の
生まれだったのですが 
1日遅れになってしまいました。

ものすごい家柄に生まれておいでですが…。

まあ欧州にも その他の国にだって 
家の歴史がそのまま国の歴史という人たちは 
たくさんいますので

その中でも
最大規模の帝国を築いた家という 
そんな位置づけでよろしいかと思います。

欧州は多くが共和制という国家体制ですが 
これは長く絶対王政などが続いたことの
反動みたいなものだと私は思っています。
 

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欧州の歴史そのものみたいな家柄

 
侯爵だの伯爵だのという尊称や 社会的に
特別扱いをされることはなくなりましたが

家としてはちゃんと存続しており 
それぞれの国の上流社会を構成しています。

オットーさんの誕生当時 まだお元気だった
皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は
大変な喜びようだったと記録されています。

皇帝からみてオットーさんは 
弟のひ孫にあたるそうで 血縁から見ると
若干遠い感じではあるのですが 

男子の早逝が多かった同家でしたから
喜びもひとしおだったに違いありません。

皇帝のご所望により オットーさんは
ご一家で皇帝の居城シェーンブルン宮殿に
住まわれるようになったそうで 

皇帝も幼子に囲まれて
幸せな最晩年だったでしょう。

あの豪華なお城に住んでいたなんて 
すてきだわわわん。(‘▽’)

ですが第一次世界大戦の最中の1916年に 
老皇帝が崩御されたそうで

お父上がカール1世として即位され 
オットーさんはわずか4歳で皇太子になりました。 

実はこの戦争を契機として 栄光ある
オーストリア=ハンガリー帝国が
崩壊してゆき 皇帝の一家は
いわゆる流転の生活を余儀なくされるのです。

父君を亡くされたのは9歳でしたし 
この時は一家でなんと島流し状態。

それでもご先祖さんたちが 欧州一の
大帝国を築いてくれてあったおかげで 

あちらこちらにいる親類縁者が
「王さま」だったりするので 
オットーさんたちを支援してくれたそうです。

スペイン国内で落ち着いた
オットーさんたちは勉学に励みます。

母君がつけてくれた家庭教師で 
かつての歴代の皇帝たちが習得してきた
語学をみっちりと教え込まれたそうです。

それらは将来オットーさんが
皇帝に即位した時
治めるであろう地域の言葉という
意味合いもあったものと推察されます…。

16歳になってオットーさんは家族と離れ 
ベルギーでギムナジウムに通います。

大学は学費のかからない 
ルーヴェン・カトリック大学に決まりました。

母君はオットーさんの代理として 
欧州の社交界などに顔を出すことで

顔つなぎというか 存在を
アピールしていたそうです。

けれども穏やかな時はそんなに
長く続くことはなく やがて
最大最強の敵が現れます。

ヒトラーの台頭と第二次世界大戦の勃発は 
わずかに囁かれていた帝政復古を
完全に打ち砕くものとなりました。

1940年追われるように欧州を
西へと避難し ついに新大陸へ渡りました。

そして翌年には母君や妹弟たちも 
ヒトラーによってオーストリアの
市民権を奪われ、一家は無国籍に
なってしまったのです。

欧州きっての名門王家は 
ワシントンDCに住むことになりました。

米国にいることができてよかったと
思いますけれどねえ。

誇り高い欧州の名門中の名門が 
恐らくは 心のどこかで吹き溜まりの
ような場所と少しばかり下に見ていたと
思われる米国に 身を寄せることになろうとは…

みなさんの心中 如何許りだったか…。
 
 

誇り高き大帝国最後の皇帝

 
戦後、オーストリアはソ連に占領されていまして 
独立する時に交わされた条約に

ハプスブルク家の復位を禁止する条項が
含まれていたため オットーさんたちは
また故国に帰れなくなってしまいました。

うひゃあ…あのソ連に占領されたとか 
陸続きの欧州は気の毒でなりません。 

この世の地獄でしかなかったと思います、
軍服を着たならず者どもの集まりでしたから。

そして共和制になったオーストリアで 
オットーさんの帰国が たびたび問題に
なったのだそうですが

結局1961年に
帝位を放棄するからという旨を
弁護士を通じて宣言しました。

そこまでしたのに パスポートを
認められたのが1966年だって。

日本の企業並みに
決定に時間がかかり過ぎだよねえ。

どうしてそんなに苛めるんだろう? 
この人たちのせいじゃないのに。

でもねこういう人々の態度をみると 
欧州における数百年間の「支配」に対する
憎しみというか 恨みの根の深さを
ひしひしと感じるのですよ。

でもよかったですねえ 
故国に戻ってくることができて。

ところでオットーさんは 実は欧州連合(EU)の
実現にも関わっているのです。

リヒャルト・グーテンホーフ=
カレルギー伯爵(ミツコさんの息子さん)らが
提唱した国際汎欧州連合の会員でもあった
オットーさんは 米国に暮らしてみて
「欧州人」という意識を強くしたんだそうです。

1972年にはリヒャルトさん亡き後の 
第2代国際汎欧州連合の会長に就任しています。

その後1999年には退き 
84年間務めてきた当主の座も
長男に譲ります。

2011年7月 ドイツの自宅で
98年の人生を閉じました。

正式に即位はしていませんが 
歴代の皇帝の中の誰よりも 
激動の生涯を送った最期の皇帝
だったのかもしれませんね。
 
お読みいただきまして ありがとうございました。
 

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