今日は「ハル・ノート」と呼ばれる文書が提示された日

ハル・ノート 忘れ得ぬ出来事

 
ハル・ノート
 
「ハル・ノート」は
1941年11月26日 

米国側から日本に提示された
交渉文書のことですが ほとんど
命令みたいなもんですわ。

明らかになっているとおり 
米国側は日本に戦争を
仕掛けさせるために

無理難題を吹っ掛けて
挑発してきたんですから。

ルーズベルト大統領も 
このハルって国務長官も
はっきりと言い切ってますよね
時間稼ぎだったと。

形だけは甲乙と二つの条件を提示して 
甲をのめないなら 
乙しかないんだけどねと
迫ってきたわけですね。

初めから んな条件のめるか!

という内容なので 米国側としては
日本がいつ切れるか そっちの方を
注視していたくらいですから。
 

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交渉が下手なのを実証しちまった

 
ルーズベルトは決して戦争はしない
と言って大統領になりましたからね。

米国から仕掛けることは
絶対にできませんでしたので

どんなことしても 日本から
仕掛けさせる必要がありました。

攻撃されるのはどこでも良かったんですよ。

やられた! 黄色い猿はこんなに
卑怯な手を使うやつらだ!

○○の仇を討つぞ!という
大義名分が欲しかったので。

「ハル・ノート」を突きつける前から 
苛めは酷かったから 日本側が
最後通牒と受け止めたって当然ですけどね。

事前に交渉に赴いた日本の外交官が
話す内容を ハル国務長官は
すでに知っていたというくらい 
日本の暗号は解読されちゃっていたそうで。

1000年以上も性善説で
やって来た日本人が 

自分の利益のためには
平然と黒を白と言い切って
殴りつけてくる白人相手に
「交渉」なんてできませんて。

相手はだまして殴りつけて 
身ぐるみ剥ぐことしか
考えてないんですから。

日本側も時の政府が近衛内閣でしたし 
後で米国すら赤だったのか?と
疑うような人たちでしたから 
日本の役に立たなかったとしか…。

こういうことも国力の差
ということになるんでしょうね。

本当は内戦状態だったくせに 
政府ヅラしていた国民党の蒋介石も
米国による日本の包囲網がなければ 

自分たちに勝ち目がないことは
理解していたみたいで 日米が
開戦してくれることを望んでいました。

この部分は今でも見解が
分かれるようですが 当時日本は本当に
中国の国土を手に入れようと
望んでいたんでしょうか?

満州国がわずかな時間で
豊かな国になれたのは そこに暮らす
人々の努力のたまもので ほとんど
入植した日本人の働きだったでしょ。

だって女真族のふるさとだそうだけど
不毛の地だったじゃん。

住む人間が変わったら
穀倉地帯になるってどういうことよ?

実りの豊かな土地になったら 
結果だけを欲しがる連中が

入れ替わり立ち代わり襲って来るんで
邦人保護の意味もあって
関東軍が駐留してたんでしょ。

まあ…この関東軍も帝国陸軍とはいえ 
多くが半島や大陸出身だからねえ…。

英国や仏国だって中国本土に 
しっかりと広大な租界を持っていたし 

当時 日本とタイ国以外は 
全世界が白人さまの植民地だったよね。

やっぱり日本だけを悪者にしようという
企みとしか思えないわ。
 
 

一言一句残さず 未来へ伝えるべし

 
とにかく。

「ハル・ノート」は
名ばかりの交渉文書で 

導火線に火をつける役割を担い 恐らく
帝国海軍がハワイに向かっているのは 
バレていたと思うので

運命の12月 8日を
迎えてしまうのですね。

米国の高校の教科書には
こんな風にあるそうです。

―「1941年半ば、合衆国国内における
日本の資産を凍結し、

ガソリンなど軍事物資の
輸出をすべて停止した。

…日本の指導部は苦渋に満ちた
二つの選択肢を突き付けられた。

アメリカに屈従するか、あるいは
石油資源やその他資源が
豊かな東南アジアに
窮余の一策として攻撃に出ることで、

輸出停止の包囲網を打ち破るか、
のどちらかだった。」

「日本との最後の緊迫した交渉が、
1941年11月から12月初めに
ワシントンで行われた。

国務省は日本の中国からの
撤退を主張し、その代わりに
限られた規模での貿易再開を申し出た。

中国との4年以上にわたる
苦しい戦いを続けてきた
日本の帝国主義者は、

合衆国の要請で退却するのは
面子を失うことだとして
同意しようとはしなかった。

アメリカに屈従するか、
中国での侵略を続けるか、
の選択に迫られ、彼らは剣を選んだ。」

「ワシントンの政府高官はだれ一人として、
日本軍がハワイを攻撃するほど強力であり、
あるいは向こう見ずであるとは
思ってもみなかったようだ。」

「しかし、攻撃は、東京が意図的に
ワシントンでの交渉を長引かせている間に
パールハーバーで行われた。

…1941年12月7日の朝、
『暗い日曜日』に、警告なしに攻撃した。

ルーズベルトが議会で声明したように、
その日は「屈辱の日」として記憶された。」

        ―ウィキベディアより―

へっ!
だけどねえ 大日本帝国は
意図的に民間人を巻き込むようなことは
していないんですよ、
攻撃は軍関連の施設と軍艦だけでした。

米国軍は日本兵が上陸して来ると
思っていたようですが 

航空機での爆撃だけで 沖の船は
さっさと帰って行ってしまったのです。

ハワイを占領しとけば 後の戦績も
変わって来ていたかもしれませんが…。

「たら・れば論」は 惨めな気分になる
情けない考えなので やめておきます。

戦端はまずまずだったのですが… 
戦域を広げ過ぎてしまいましたね。

中枢でも陸軍と海軍と
二つの頭を持っているような
ものでしたから…。

まんまと罠にはめられて 
悔しい結果になりました。 

次は必ず勝つぞ。
 
お読みいただきまして ありがとうございました。
 

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